22(4)大阪市・「ふれあい港館ワインミュ-ジアム」における写真展
(平成15年10月24日〜11月24日まで)1ヶ月間開催




  

     撮影者からのメッセージ

 

  私が中学2年生であった昭和28年当時の社会科教科書には、必ず神戸港か横浜港で
雑貨の荷役をしている船(仕事船)の写真が載っていました。
 また教科書の同じ場所には、「わが国は海洋国家であり、資源に乏しく、貿易立国
であること
,貨物輸送が国民生活を支えている。。。。」などの記述が必ずありました。 

 昭和40年代に入り、高度成長が始まった。
 
円高が急ピッチとなり、円高のおかげで貨物輸送に従事する船は、安い用船料で
借り入れることができるようになった。
 つまり、自国船を持つ大儀名文が急激に薄れ、貨物輸送船への価値観も急激に低減した。
 中学教科書から仕事船の写真とともに上記の記述が消えたのは、この頃であった。

 「仕事船」。貨物輸送に従事する船。人里離れた所で離着桟し、人々から脚光を
浴びることもなく、その生涯を終える。
 港の台所を支え、さらには日本経済を縁の下で支え続けるこれら地味な船の生涯に、
光を当ててやりたい。

 撮り込みたいものは”ロマン”や”華やかさ”ではなく、皆様の人生の軌跡と同様
「海と船」の厳しさ、恐ろしさ、そして重厚さ。

 

 沖合から見る“船や港”、陸上から見るのとはひと味違った迫力があります。
 VLCCのデッキの広さは甲子園球場のグランドとほぼ同じ広さであり、大型コンテナ船の
重さは、20トントラック
5,000台分の重さに等しい。
 これら仕事船を沖合から港内に向けて走らせる時の緊張感を操船写真から
感じ取って頂けますこと、さらにはこれらの写真を通して「仕事船が私たちの生活を
支えているのだな!」という理解を深めていただけましたら幸いと思っております。

 

                          稲葉八洲雄


















展示写真の説明資料各種
(資料はすべて関係機関・企業のご了承をいただき、展示会において
使用させていただいたものばかりです。)

  LNG船の果たしている役割と輸入の状況

 関西地方の各家庭で使用しているLNG(液化天然ガス)は、その大部分が
堺泉北港大阪ガスの基地で陸揚げされている。
 大阪ガス泉北
LNG基地には毎月約11隻のLNG船が入港しておりますが、
LNG
船1隻当りで、一般家庭の200万所帯の1月分の消費量を運んでおります。

大阪ガスのLNG取扱量 577万トン/年 (泉北+姫路) (2002年実績)

・堺泉北港のLNG取扱量 約600万トン/年 (2002年実績)
 (大阪ガス分:約400万トン/年、 関西電力分:約190万トン/年)
LNG船の航海日数(片道) 

   インドネシア    7日間   オーストラリア  10日間
   マレーシア     7日間   カタール     15日間
   オマーン     15日間   ブルネイ      7日間

関西地方で使用しているLNGの輸入先と輸入量

            大阪ガス     関西電力     合計

 インドネシア    183万トン   124万トン  307万トン(62隻)
    ただし、インドネシアからの輸送には小型の船も数隻含まれている。
オーストラリア     42万トン    38万トン  80万トン (14隻)
 マレーシア
     40万トン    12万トン   52万トン (9隻)
 カタール       18万トン    6万トン   24万トン  (4隻)
 オマーン       44万トン     0     44万トン  (7隻)

 ブルネイ       73万トン     0     73万トン (22隻)


















 
コ ン テ ナ 船

 

 コンテナとは、物品または包装した物品を収納する入れ物のことです。船で運ばれるコンテナの殆どは幅が
8フィート(2.4m)、高さが8フィート(2.4m)で、長さが20フィート(6m)と40フィート
(12m)の2種類あります。コンテナの中には庫内を低温に保つために冷凍機が付いたものもあります。
コンテナ専用の船をフルコンテナ船、コンテナ以外の貨物も積む船をセミコンテナ船といいます。
また、陸上に設置したガントリークレーンで上からコンテナを積み込む船をLOLOLift On Lift Off)船、
フェリーのようにランプウェイを使って船の横から積み込む船をRORORoll On Roll Off)船といいます。

 大阪港に入港した最大のコンテナ船は、長さ300m、積載コンテナ個数6332TEUです。
TEUとは20フィートコンテナに換算したときの数値を示します。例えば、天井高2.4m、
床面積100平方メートルの家の容積は7TEUになりますので、この船は900軒分を運べることになります。 

 平成14年(2002年)の1年間に、大阪港に入港したコンテナ船は4千隻で、加えて、200隻の
外航フェリーも入港しました。これらの船は80万TEUのコンテナに1600万トン貨物を大阪港に運んで
きました。
 これらのコンテナ貨物が船に積み込まれた外国の港(仕出港)は次のとおりです。
・ 上海、香港などの東アジアの港         1128万トン

  バンコック、シンガポールなどの東南アジアの港  260万トン

  ハンブルグ、ロッテルダムなどのヨーロッパ     66万トン

  メルボルン、シドニーなどオセアニアの港      71万トン

  バンクーバー、タコマなどの北米の港       123万トン など

 ベスト3は、次のとおりです。
  1位 上海 360万トン、 2位 香港  200万トン、 3位 青島 100万トン 

 また、コンテナ貨物の種類は次のとおりで、液体のバラ貨物以外のあらゆる種類の貨物が
コンテナで運ばれています。 

 ・  野菜、果物などの農水産品  142万トン、   製材、樹脂などの林産品    66万トン
 
石材、原塩などの鉱産品  27万トン、 電気機械、金属製品などの金属機械工業品359万トン
  ガラス、化学薬品などの化学工業品127万トン、 紙、パルプ、食品などの軽工業品157万トン
 ・  衣料、家具などの雑工業品611万トン、     肥料金属くずなどの特殊品157万トン など

スト3は、次のとおりです。

  1位 衣料、身回品、はきもの  350万トン、 2位 電気機械  170万トン
  3位 家具装備品        120万トン

 

 

大阪港の設計に自分の生涯をかけた

            オランダ人デレーテ

 大阪港の築港計画には多くのオランダ人が招聘されている。
 西向きに開口した大関門を含め、現在の大阪港の原型はオランダ人デレーテ
によるものです。
彼は、1873年から1903年まで30年間日本に滞在、港湾設計の分野で
大きな貢献をした。
明治27年(1894年)に築港計画図が完成した。
そして本格的築港事業は、明治30年(1897年)に開始されている。

   菱垣廻船について

 ここに展示致しました写真は、平成11730日の実験帆走中のものです。
 朝9時から夕方の5時まで帆走は行われ、貴重な数々のデータ計測が行われました。
 菱垣廻船「浪華丸」を建造した日立造船・堺工場(基地)出発時より、大阪湾中央での
帆走、そして基地に戻るまでの1日を、大阪市港湾局の当日のエスコートに従事したタグボート
「淀 丸」に便乗させて頂き、撮影した百数十枚の写真の一部です。

 当日は早朝からあいにくの海上平穏で実験には不向きでした。しかしながら1300頃から
急に風が吹き始め、1500頃まで風速MAX 10m/sほどになりました。まさに神風でした。
 帆は風を一杯にはらみ、快走の2時間でした。当日撮った写真はフィルム7本でしたが、
そのうちの2本がOKでした。風を孕んだ素敵な菱垣廻船の勇姿が撮れました。
 江戸時代の物資輸送の立役者であった復古帆船の「菱垣廻船」(船名浪華丸)。
 大阪市海洋博物館「なにわの海の時空館」予定地に平成111024日(日)に
搬入(写真)
されました。
 このあと、平成1111月第1週に巨大なドーム(写真)も搬入されております。
 この巨大なドーム(海洋博物館全体を覆うもの)も据付が全て完了。
この「なにわの海の時空館」は、翌年の平成12年7月14日にオープンしました。 

 

菱垣廻船と大阪の果たした役割

1.     江戸時代天下の台所として栄えた大阪が人口が急増した17世紀中旬頃より大量の消費地
 となった江戸へ政府御用船として米や酒、油、木綿、砂糖、醤油から 金物類、木材等を載
 せて航海した。 

2.復古帆船の基本図面は国立国会図書館蔵の「千石積菱垣廻船弐十分の一図」とした。
  今回の復元建造工事は、可能な限り当時の材料と工法を用い、かつ実際の船匠によって
 実物大で復元する。この基本図面の船が活躍した時とは、今から約200年前すなわち
 18世紀後半のもの。 

3.建造にあたっては、材料、工具ともすべて当時と同じものを使用した。
4.この種の建造を実際に担当する船匠は全国的に生存している人数も 限られているし、
  後継者はいない。今がラストチャンスである。

  実際に作業に携わった船匠の平均年齢は66歳であった。 

5.実験帆走を行うことにより、当時の菱垣廻船の帆走性能(実際のスピード、風に対して
 どれだけ切り上がれたか?等々)が明らかにされる。そして歴史上「不明確な」部分が解明
 される。
  実験帆走の結果、予想を超えて船首方向から左右70度までの風に対して進むことが
出来たことが判明した。
 また速力は7ノットでの帆走が可能であることが判明した。 

6.本船「浪華丸」のサイズは、
  全長29.4メートル、船幅7.4メートル、深さ2.4メートル、帆柱の長さ約27メートル、
帆の大きさは18mX20m、荷物の積載可能量は千石積ですので10000.15トン=150重量トン
となりましょう。
 

菱垣廻船の誕生と江戸時代

 菱垣廻船が誕生する以前の物流、海上輸送はどのようなものであったのか?
 近世初期(安土桃山から江戸初期16世紀初頭)の商品の流通は、まだまだ熟していない。
 江戸時代に入り、江戸の人口集中の速度をみると、寛永10年(1633年)15万人、
明暦3年(1657年)29万人、元禄6年(1693年)35万人、これに武家人口を加算すると、
60万から70万人に達していたと推定される。

 そして近世中期(16世紀末から17世紀)には、およそ武士50万、町人50万余、
合わせて100万人を超す大都市となっている。 

 近世初期の段階では、江戸といえども人口の顕著な増加はみられず、
したがって中世の物流の延長線上にあり、物流は陸路が主体であった。
 近世初期の海上物流は商品物流がさほど盛んではなく、諸大名と結んだ特権商人によって
米穀、木材が主で城下町が必要とする日常消費物資の大量輸送は生産量との関係もあって
軌道にのっていなかった。 

  したがって、近世初期の廻船は、技術的には中世末期の廻船の性格を受け継いだもので
あって、船の大きさも、一部日本海方面で木材輸送に働いた北国船のように 1,000石積以上の
大船も使用されていたが、一般的には商品の需要や集荷の関係、ないしは操船技術上の制約も
あって大船使用の機運は熟していなかった。

  元和5(1619年)に始まった大坂/江戸間の菱垣廻船も、当初はわずか250石積でしかなく、
つづいて関西の酒荷などを江戸へ積みおろした伝法船も似たようなものであった。
飛躍的な発展を遂げた元禄期(1688年から1704年まで)でさえ平均500石積程度であった。 

  菱垣廻船についてのそもそもの文献の原典は、文政12年(1829年)に菱垣廻船問屋側が
大坂町奉行に提出した「菱垣廻船起立並問屋古来より之仕来御尋に付御答書」が下敷きとなっており、
戦前・戦後を通じての定説となっている。
 すなわち、「元和5年(1619年)泉州堺の一商人が紀州富田浦から250石積の廻船を借り受け、
大坂から木綿、綿、油、酒、酢、醤油などの日常品を積んで江戸へ運送したのに始まり。。。」である。 

 菱垣廻船について、国史大辞典(吉川弘文館)の記述によると、江戸時代、樽廻船とともに
上方/江戸間の海運の主力となり、木綿、油,酒、醤油、紙など、江戸の必要とする日常生活物資を
輸送した菱垣廻船問屋仕建ての廻船。
 菱垣の名称は、船側垣立(かきだつ)部分の筋を菱組の格子に組んだのに由来するもので、
それは幕府をはじめ領主御用荷物の輸送にあたるという特権を表すものであった。

  元和5年(1619年)に泉州堺の商人が、紀州富田浦の250石積廻船を借り受け、
大坂より江戸への日常物資を積み送ったのが菱垣廻船の始まりで、寛永元年(1624年)には
大坂北浜の泉屋平右衛門が江戸積問屋を開業し、同4年に毛馬屋、富田屋、大津屋、顕屋(あらや)、
塩屋の5軒が同じく江戸積問屋を始めるに至り、大坂菱垣廻船問屋が成立し、この廻船問屋によって
菱垣廻船が仕建てられた。 

  廻船問屋は問屋自身の手船の場合もあったが、多くは紀州(富田浦、日高浦、比井浦)や
攝津(神戸浦、脇浜浦、二つ茶屋浦)などの船持の廻船を付け船し、積荷の集荷・差配をはじめ、
廻船仕建業務と荷主からの運賃集金事務を行う 海上運送業者であった。 

  やがて上方/江戸間の商品流通が頻繁となるに及んで、元禄7年(1694年)に大坂屋
伊兵衛の呼びかけで、江戸の菱垣廻船積合荷主が協議して江戸十組問屋が結成され、廻船は
その共有所有となった。
  また十組問屋は菱垣廻船問屋運営の差配機関となって、大行司の監督のもとに、難破船の
海難処理にあたると同時に船名を確認し、船足(積載量の制限を示す喫水線)・船具に極印元を打ち、
江戸入津の際にはこの極印を検査した。

 

菱垣廻船活躍の立役者・河村瑞賢

 「菱垣廻船と天下の台所・大阪」を大発展に導いた立役者・河村瑞賢について、ご紹介致します。
 当方のホームページ平成111019日「大阪港からの発信です(99-06)」に掲載致しました内容です。 

13歳で天職を求めて江戸へ出る(1630年)。
  車力を仕事としており、車力十兵衛と呼ばれた。
  その後材木業、土建業を始め、実績を積んだ。
  1657年(明暦3年)明暦の大火(江戸の大火)に際し、木曾にいち早く赴き、材木の
買占めをやり、巨万の富を手に入れた。江戸の大火の後、江戸に人口の集中が顕著になる。
  江戸の大火で焼け落ちた江戸城本丸、二の丸の修復なども手がけ、当時の幕府から
絶大な信用を得る。 

1699年(元禄12年)、82歳で没するまでの間に、彼は色々な分野で歴史上に名の残る
事業を成し遂げたが、なかでも特に有名なものは、「奥羽海運の革新」と 「畿内の治水」
であるとされています。
  ともに「菱垣廻船と天下の台所・大阪の確固たる確立」を語る上で、極めて重要な事柄でしょう。
  詳しくはホームページでご紹介致しますが、ここでは菱垣廻船発展の 重要な側面であります
「奥羽海運の革新」についてのみ簡単にご紹介致します。 

・奥羽海運の革新と瑞賢
  江戸の人口急増とともに、当初は幕府の直轄領での御城米すなわち天領の産米数万石を
江戸に輸送するもこが急務となり、ここで幕府は瑞賢を起用した(1670年)。
  それまでも各藩の領主米など、江戸への輸送があったが、量的にはわずかであり、
輸送の経路・航路も迅速性、安全性、経済性において合理性を欠くものであったようです。

  ここで瑞賢がやったことは、

1. 積み出しから江戸への搬入にいたるまでの航路事情の詳細な調査、地理的な調査、
   気象の調査
 2.堅牢な船の確保、海域情報に詳しい船員、質の高い船員の確保
 3.各種規制の緩和、利益平等の原則、幕府の保護を与える、無駄な経費の節減
  等を基本として、幕府に「運航計画書」を提出。
  1672年(寛文12年)までには「東回り航路」及び「西回り航路」が確立された。 

   この過程で、気象上の安全面、補給面などから寄港地が定められたこと、
  あるいは陸上の「関所」に相当する「船番所」が設けられ、各地で各藩の保護を
  得られたこと。

   さらに寄港地にては「立務所」が設けられ、船の立ち入り検査、難破船その他の
海難が生じた場合の原因調査、対策、さらには共同海損の取り扱い方まで行われた。 

   「東廻り航路」では、それ以前は宮城県仙台の南、阿武隈川の河口荒浜に集結、
船積みされた天領の産米は海路茨城県の利根川を遡り、江戸に搬入する方法がとられていた。
   それをダイレクトに江戸湾に向けることを可能とする種種の方策がとられた。 

   「西廻り航路」では、それ以前は、北陸、東北諸藩の物資を畿内に輸送するルートは
多くが日本海沿岸を西航して越前の敦賀、あるいは若狭の国小浜 に陸揚げ、陸路琵琶湖の
北岸より琵琶湖の水運により琵琶湖の大津に達し、そのあと陸路京都、大坂に輸送されていた。

   又江戸への物資の輸送の多くが日本海を北上し、津軽海峡をわたって江戸に輸送されていた。
 この航路は当時の船にとっては安全面から極めて厳しい環境であった。
   視界不良、時化などで江戸まで無事にたどり着く歩留まりは悪かったようである。 

   1672年瑞賢が幕府から命を受けて確立した輸送方法は、出羽の国(秋田県・山形県)の
御城米を最上川の河口の酒田に集積、海路下関廻りで瀬戸内海を経由して大坂に入る方法であった。
 航海距離は遥かに遠くなったが、かえって時間の短縮になるとともに、コスト面、商品の状態等、
すこぶるよろしく高い評価となった。 

   菱垣廻船のスタートは、文献によると。。。
 「1619年(元和5年)和泉の国堺の商人が紀伊の国富田浦の250石積みの廻船を借り
受け、大坂から江戸へ生活物資を輸送したことにはじまる。」 とされている。
  一方1627年に菱垣廻船問屋5軒(船問屋であり、所有船のほか、船をタイムチャーターして
支配下においている問屋。荷主からは運賃をもらう現在の海運の原型といってよいのでは?)の成立。

  現在の船のオペレーター組合とか海運同盟みたいなものとおもわれる。
   これに対して荷主側の組織(現在で云えば商社の共通運賃同盟の組織?)である「江戸十組問屋」
の成立は、1694年(元禄7年)であり、これの成立をきっかけに菱垣廻船の全盛期を迎える。 

   最盛期の菱垣廻船の数は年間延べ航海数で大坂から江戸まで1300艘が 就航している
(最盛期1700年から1703年までの3年間の年間平均)。
   1艘の廻船で年間5仕建(往復)として当時の廻船実数は260隻になる。
   所要日数は早いので10日、おそいので2ヶ月程であったとの記録がある。
   平均では27日との記録がある。
   ここでいう菱垣廻船とは従来からの西国からの貨物を大坂経由で江戸に 輸送するものは勿論、
北陸東北の荷物を西廻り航路で大坂経由ダイレクトに江戸に向かうものも含まれる。

   奥羽海運と瑞賢のかかわりは、以上のとおりです。 

   瑞賢が果たした役割は、巨大な人口・消費地になった江戸へ安定的に消費物資を輸送する為、
菱垣廻船が十二分に機能する環境を早い時期に整備したことにありましょう。  

  また、当然のことながら、全国からものすごい量の物資が大坂に移入し、それらを順調に
船積みさせるには港の整備が不可欠でした。
   これまた幕府の命令で瑞賢が「畿内の治水」に大きな役割を演ずるわけです。
  この写真にある菱垣廻船と大阪、そして河村瑞賢は、互いにきっても切れない

   強い関係で結ばれております。

                       以上(菱垣廻船について)


  復古帆船(菱垣廻船)の永久保存展示

 平成111024日(日)ドーム入り。
 大阪市の海洋博物館の主たる展示物が何になるか?  計画段階から当方に
とっては最大の関心事であった。
 日頃から大阪の海を仕事場所としている私は、江戸時代に「商業の街大阪」
の確固たる基盤を構築した菱垣廻船であったらなー!!と淡い期待を寄せていた。

 「メインの展示物は菱垣廻船だ!」と決定したことを知った私が驚嘆の
喜びを感じたのは言うまでもなく、同時にこの快挙を決定して下さった
関係者の皆様に心から感謝したものだ。

 菱垣廻船が、当地大阪に残した歴史的な功績の多さは近世海運を
研究してきた方々のみならず、他の多くの人々に深い畏敬の念を
植え付けてきたこと言うまでもない。  
 菱垣廻船こそ、過去から現在へ、さらには将来に亘って大阪人の心、
不屈の魂であること「天下の台所
1,000年の歴史」が証明している。
 

 平成117月末の1週間にわたる実験帆走を無事終えた菱垣廻船「浪華丸」。
 全長
29.4メートル、船幅7.4メートル、深さ2.4メートル、 帆柱の長さ
27メートル、帆の大きさ18mX20m。船体以外はすべて丁寧に取り外され、
綿布に包まれ、大切に扱われつつ巨大なフローティングクレーンで
吊り上げられ約
3時間後、無事ドームの中心部に着底した。
 大海原での快走の姿を再び目にすることはないのだという無念も感じつつ、
シャッターを繰り返し押し続けた。


  「なにわの海の時空間ガラスドーム」の完成
 

 平成11117日(日)ドームカバー取り付け
 用事で東京に行っていた私が、当日早朝の「ドームカバー取り付け」作業に間に合うようにとんぼ返りで
帰阪したのは言うまでもない。 いつものことながらシャッターチャンスはワンチャンスだ!!
 時空間前面の海域に固定されたバージからフローティングで吊り上げられ台座に安着するまで約
5時間かかった。
 フローティングクレーンはコンピューターで制御される。

 ドームの円周70メートルの周りに配置された作業員の面々は、手に手にトランシーバーで
コンピューター制御室と連絡を取りながらミリメートル単位の正確さで見事に安着した。

 まもなくこの大阪市海洋博物館(仮称)は、「なにわの海の時空間」と命名され、
翌年平成
127月14日に開館した。 

 大阪市南港に位置する当博物館は、海上交通の要所として発展してきた大阪の「海の交流史」や
世界の海洋交流に触れながら、人が海、船、港とどのように関わってきたかをわかりやすく展示している。
 直径70mガラスドームは非常にインパクトがあり、ガラスの建築家の異名を持つポール・アンドール氏
による設計とのこと。

 展示棟は、外壁を4208枚のガラスを用いたドーム型の建物なので、館内は明るく、開放的な空間と
なっている。
 この建築物は、英国構造技術者協会より、
2002年の特別賞(Structural Special Award)を受賞した。
 昼間とは全く違った姿をみせる夜のライトアップされた展示棟は、大阪港を美しく彩っている。

「なにわの海の時空間」公式サイトは、
http://www.jikukan.or.jp/

館長のご挨拶

「なにわの海の時空館」の、四季折々の海と空の蒼さを映す銀色のドームは、
「大阪港に浮かぶ一粒の真珠」と海外のメディアにも紹介され、
2000714日の
開館以来、多くのみなさまのご来館をいただいております。
 当館は、難波津の昔より、大阪湾のふところに抱かれた良港として栄え、
さらに内陸部へと流れる河川、大阪の町中を縦横にはしる堀川によって育まれた、
大阪の地の歴史、大阪人の才覚を、愉
(たの)しみながら学んでいただく施設でございます。

 実物大に復元されました菱垣廻船「浪華丸」をはじめ、体験型の展示を多くすることによって、
展示品を知識としてではなく、感性で実感していただければと願っております。

 また、海に浮かんだガラスドームの幻想的な佇(たたず)まいは、幅広い年齢層のみなさまに、
景観を愉しんでいただくと共に、癒しの場としてもご活用いただいております。
 ご来館のみなさま、お一人おひとりの、水の都大阪へと想いを誘う施設として、
ご満足いただけますよう、これからも努力いたしてまいります所存です。
 みなさまのご来館を心からお待ち申し上げております。
    館長 石浜紅子


     73万トン (22隻)

大阪港振興協会機関紙「大阪港」に紹介記事

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