7.菱垣廻船と天下の台所・大坂の役割
 (只今部分的に工事中です。 完工予定は平成12年1月末)
 

 はじめに
 菱垣廻船をホームページでとりあげるに至った経緯について。。。

 菱垣廻船の実験帆走(平成11年7月末)以来、多くの方々から
「海洋博物館のメインの展示物になる菱垣廻船とは一体何なのだ??」
「もっと詳しく知りたいが??」
との問い合わせもメールで届いて参りました。

 菱垣廻船については、平成11年6月8日セーリングヨット研究会に
所属している、ある先生から次ぎのご紹介をメールで頂きました。

>過日、当方から和船の再建工事が進行中であるが、海上試験の見通しは立っ
>ていないとの情報を流しましたが、セーリングヨット研究会を中心とした有
>志の運動と多くの人々の協力によって、事業主である大阪市も、実船実験=
>再建した菱垣廻船による帆走試験実施の英断を下しました。
>和船の帆走能力が実船実験により解明されると期待されています。
>6/1 付朝日新聞にカラー写真入りで大きく報道されたので、ご存知の方もお
>られることでしょう。

 日立造船・堺工場で完成した「菱垣廻船」の姿を7月17日に初めて目にしました。
 大阪は南港OZ岸壁で一般公開された時です。
 人目見ただけで魂を奪われました。 
 言葉ではとても表現できない感動を受けました。
 その後は、下卑な??云い方ですが、「惚れた彼女(?)の全てを
知りたくなった!!」のです。

 平成11年7月25日には、大阪市港湾局が一般の希望者の為に無料で提供して
くださった大型フェリーに乗る機会をえて、実験帆走する姿を観覧。
  この時は極めて短時間でしたが、実験帆走する「菱垣廻船」の姿は、
実にすばらしいものでした。
 
 これだけでは飽きたらづ、あらためて港湾局にお願いして実験帆走が
終わりに近づいた7月30日当日のエスコートを担当したタグボート「淀 丸」に
終日乗せていただく機会を頂きました。
 そしてこころゆくまで帆走する彼女の雄姿を写真に撮り収めました。

 江戸時代の物資輸送の立役者であった復古帆船の「菱垣廻船」(船名浪華丸)。
大阪市海洋博物館「なにわの海の時空館」予定地に10月24日(日)に
搬入されました。
 このあと、平成11年11月第1週に巨大なドームも搬入されております。
 この巨大なドーム(海洋博物館全体を覆うもの)も据付が全て完了致しました。
 

 この「菱垣廻船」に付きましては、平成11年6月頃より関西地方を中心とした
新聞報道、大阪市港湾局の各種パンフレット、大阪港振興協会にて隔月発行
している雑誌「大阪港」(1999年January 第50巻1号)さらには東京大学にて
開設されております「菱垣廻船のホームページ」
   http://bills.iis.u-tokyo.ac.jp/higaki/
におきまして、いろいろと紹介されております。

 これらの資料で解ったことは。。。

1.江戸時代天下の台所として栄えた大阪が大量の消費地となった江戸へ、
 米や酒、油、木綿、砂糖、醤油から金物類、木材を載せて航海した。

2.復古帆船の基本図面は国立国会図書館蔵の「千石積菱垣廻船弐十分の一図」
 とした。
  今回の復元建造工事は、可能な限り当時の材料と工法を用い、かつ実際の
 船匠によって実物大で復元する。
  この基本図面の船が活躍した時とは、今から約200年前すなわち18世紀後半
 のもの。 

3.建造にあたっては、材料、工具ともすべて当時と同じものを使用した。

4.この種の建造を実際に担当する船匠は全国的に生存している人数も
 限られているし、後継者はいない。
  今がラストチャンスである。
  実際に作業に携わった船匠の平均年齢は66歳であった。

5.実験帆走を行うことにより、当時の菱垣廻船の帆走性能(実際のスピード、
 風に対してどれだけ切り上がれたか?等々)が明らかにされる。
  そして歴史上「不明確な」部分が解明される。

6.本船「浪華丸」のサイズは、
  全長29.4メートル、船幅7.4メートル、深さ2.4メートル、
 帆柱の長さ約27メートル、帆の大きさは18mX20m、荷物の積載可能量は
 千石積ですので1000x0.15トン=150重量トンとなりましょう。

 おおむね以上のことが解ったのですが、これだけではとても私の「好奇心」を
満たしてくれるものとはなりませんでした。
 
 その後、大阪市港湾局企画振興課あるいは大阪城天守閣博物館の
アドバイスを頂ました。
 私が求める情報は、大阪市中央図書館にあるとのことでした。
 図書館にて資料・文献を捜しましたところ、多くのことがわかりました。

 これらの資料で解った事を含め、実験帆走の姿をホームページで
ご紹介致します。

 このホームページに掲載する内容は、概ね次ぎの事柄です。

1.はじめに
 ホームページ掲載に至った経緯について。。。

2..菱垣廻船はいつ始まり、最盛期はいつで、どのようなものであったか?
 またいつ頃終焉を迎えたのか?それらの理由は?
  それ以前の日本の海上輸送はどのようなものであったのか?

3.天下の台所としての大阪の役割は、江戸に人口集中が始まってから一層
 大きくなったと思われるが、菱垣廻船と天下の台所大阪を揺るぎ無いものとした
 立役者は誰か??

4.500以上の船舶の建造禁止、船舶の構造の規制など当時の鎖国政策のなかで、
 菱垣廻船はどのような構造上の影響を受けているのか?
  また、菱垣廻船の運航上の特徴は何であったのか??
 (平成11年12月末現在工事中)

5.おわりに。および参考文献

 
 本日平成11年12月末現在で掲載致しました内容は、前記のうちの1.2.3.および5.です。
 
 残された4.を含め全ての内容について、おそくとも海洋博物館「浪華の海の時空間」の
開館予定である平成12年夏までには完全掲載させて頂く予定です。
 

      実験帆走シリーズ 菱垣廻船-01


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                 ここに掲載致しましたものは、平成11年7月30日の実験帆走中のものです。
                 連日朝9時から夕方の5時まで帆走は行われ、貴重な数々のデータ計測が行われました。
                 写真は合計30枚程度掲載致しましたが、菱垣廻船「浪華丸」を建造した日立造船・堺工場
                 (基地)出発時より、大阪湾中央での帆走、そして基地に戻るまでの1日を、大阪市港湾局
                 の当日のエスコートに従事したタグボート「淀 丸」に便乗させて頂き、撮り収めたものです


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1.菱垣廻船とは?はじまり?最盛期?終焉?について

(1)菱垣廻船が誕生する以前の物流、海上輸送はどのようなものであったのか?

  近世初期(安土桃山から江戸初期16世紀初頭)の商品の流通は、まだまだ熟していない。
  江戸時代に入り、江戸の人口集中の速度をみると、
 寛永10年(1633年)15万人、明暦3年(1657年)29万人、元禄6年(1693年)35万人、
 これに武家人口を加算すると、60万から70万人に達していたと推定される。
  そして近世中期(16世紀末から17世紀)には、およそ武士50万、町人50万余、合
 わせて100万人を超す大都市となっている。

  近世初期の段階では、江戸といえども人口の顕著な増加はみられず、したがって
 中世の物流の延長線上にあり、物流は陸路が主体であった。
  近世初期の海上物流は商品物流がさほど盛んではなく、諸大名と結んだ特権商人
 によって米穀、木材が主で城下町が必要とする日常消費物資の大量輸送は生産量との
 関係もあって軌道にのっていなかった。

  したがって、近世初期の廻船は、技術的には中世末期の廻船の性格を受け継いだ
 ものであって、船の大きさも、一部日本海方面で木材輸送に働いた北国船のように
 1,000石積以上の大船も使用されていたが、一般的には商品の需要や集荷の関係、
 ないしは操船技術上の制約もあって大船使用の機運は熟していなかった。
  元和5年(1619年)に始まった大坂/江戸間の菱垣廻船も、当初はわずか250石積で
 しかなく、つづいて関西の酒荷などを江戸へ積みおろした伝法船も似たような
 ものであった。
  飛躍的な発展を遂げた元禄期(1688年から1704年まで)でさえ平均500石積
 程度であった。

(2)菱垣廻船とは?はじまり?最盛期?終焉?について
 
  菱垣廻船についてのそもそもの文献の原典は、文政12年(1829年)に菱垣廻船問屋側
 が大坂町奉行に提出した「菱垣廻船起立並問屋古来より之仕来御尋に付御答書」が
 下敷きとなっており、戦前・戦後を通じての定説となっている。
  すなわち、「元和5年(1619年)泉州堺の一商人が紀州富田浦から250石積の廻船を
 借り受け、大坂から木綿、綿、油、酒、酢、醤油などの日常品を積んで江戸へ運送
 したのに始まり。。。」である。

  菱垣廻船についての説明文は、
 
 A.国史大辞典第11巻(吉川弘文館)
 B.日本史大辞典第5巻(平凡社)
 C.日本歴史大辞典第8巻(河出書房)

に詳しい記述がなされている。
 これらのなかで特に詳しく、かつわかりやすい解説と思われる A.の国史大辞典
(吉川弘文館)の記述をご紹介致します。

*** 江戸時代、樽廻船とともに上方/江戸間の海運の主力となり、木綿、油,酒、
 醤油、紙など、江戸の必要とする日常生活物資を輸送した菱垣廻船問屋仕建ての廻船。
  菱垣の名称は、船側垣立(かきだつ)部分の筋を菱組の格子に組んだのに由来する
 もので、それは幕府をはじめ領主御用荷物の輸送にあたるという特権を表すもの
 であった。
  元和5年(1619年)に泉州堺の商人が、紀州富田浦の250石積廻船を借り受け、
 大坂より江戸への日常物資を積み送ったのが菱垣廻船の始まりで、寛永元年
 (1624年)には大坂北浜の泉屋平右衛門が江戸積問屋を開業し、同4年に毛馬屋、
 富田屋、大津屋、顕屋(あらや)、塩屋の5軒が同じく江戸積問屋を始めるに至り、
 大坂菱垣廻船問屋が成立し、この廻船問屋によって菱垣廻船が仕建てられた。

  廻船問屋は問屋自身の手船の場合もあったが、多くは紀州(富田浦、日高浦、
 比井浦)や攝津(神戸浦、脇浜浦、二つ茶屋浦)などの船持の廻船を付け船し、
 積荷の集荷・差配をはじめ、廻船仕建業務と荷主からの運賃集金事務を行う
 海上運送業者であった。

  やがて上方/江戸間の商品流通が頻繁となるに及んで、元禄7年(1694年)に
 大坂屋伊兵衛の呼びかけで、江戸の菱垣廻船積合荷主が協議して江戸十組問屋が
 結成され、廻船はその共有所有となった。
  また十組問屋は菱垣廻船問屋運営の差配機関となって、大行司の監督のもとに、
 難破船の海難処理にあたると同時に船名を確認し、船足(積載量の制限を示す
 喫水線)・船具に極印元を打ち、江戸入津の際にはこの極印を検査した。
 
  しかし享保15年(1730年)に十組問屋の中の酒店組(酒問屋)が十組仲間から
 脱退して、江戸積酒造仲間が中心となって酒荷専用の樽廻船を独自に運航させた。

  その理由は、第一に元来酒は腐敗しやすく、輸送に迅速性が要求されて
 いたが、菱垣廻船での酒以外のいろいろの荷物との混載では、集荷から積荷して
 出帆するまでの日数を要した事。
  第二に酒荷は下積み荷物であるので、菱垣廻船での混載では、海難に際して
 船足を軽くするために上積み荷物から刎荷(捨荷)されたため、酒荷は
 残りながら海難によって生ずる荷主間での共同海損に応じなければ
 ならなかったこと。
  第三に酒荷は酒造仲間の送り荷(委託荷物)であり、菱垣積荷物は江戸問屋
 の仕入れ荷物(注文荷物)であったため、海難に際しての損害負担は、送り荷
 では荷主の酒造仲間が負担したのに対し、仕入れ荷物は江戸十組問屋にあった
 こと、などがあげられる。

  しかも現実には樽廻船は下積荷物である酒荷のほかに、上積荷物を余積
 (よづみ)と称して安い運賃で積む事ができた。
   こうして樽廻船は迅速性、安全性に加えて、低運賃であるところから、
 本来菱垣廻船に積むべき荒荷(雑貨品)がしばしば樽廻船へ洩れ積み
 されるようになり、ここに積荷をめぐって菱垣廻船と樽廻船の間で海運競争
 が激しくなり、紛糾が繰り返された。
  その後両廻船問屋間で幕府の仲介もあり、積荷に関して各種の協定が
 結ばれているが、樽廻船の勢いを止めるまでには至っていない。

  安永元年(1772年)樽廻船の総数106隻に対して、菱垣廻船は160隻であった。
  その後も樽廻船への洩れ積みは続き、、菱垣廻船は老朽化した船舶を
 新造したり修復したりする事ができないまま、相次ぐ難破船を補填することも
 できないまで、衰退の一途をたどっていった。

  安政8年(1825年)にはその数わずかに27隻まで激減し、他方樽廻船は
 この機に灘酒造仲間の援助を得て拡充していった。

  天保の改革により、天保12年(1841年)株仲間解散令が出され、菱垣・樽
 両廻船問屋が開放され、従来の積荷仕法の諸制限も撤廃され、荷主相対の上
 菱垣・樽両廻船に自由に積み込むことになった。
  この時点で、菱垣廻船は幕府・諸大名の御用荷物の輸送にも応ずるという
「特権」の対象であった「菱垣」もつけなくなり、両廻船は外観上からは全く
 区別がなくなった。

  機構の改革に伴い海損処理業務を行う機関の必要から、弘化3年(1846年)
 江戸十組問屋や大坂二十四組問屋に代わって九店(くなた)仲間が結成され
 菱垣廻船はこの九店(くなた)仲間差配の廻船となった。
  現実には樽廻船問屋が一部菱垣廻船問屋をも兼ねることによって、樽廻船
 問屋仕建の樽廻船には酒荷のほかに従来の菱垣積の荒荷をも積み込むことが
 出来たが、菱垣廻船問屋仕建の九店(くなた)仲間差配の菱垣廻船には
 酒荷の積み入れは認められず、もっぱらそれ以外の菱垣積荷物を積みこむ
 ことで、両廻船の積荷区分がなされて、明治10年(1877年)ごろまで活躍した。
 
  一方この頃には、諸規制も撤廃された事から、西洋式の帆船、あるいは
 蒸気船が活躍を始めるに至り、実質的に菱垣廻船、樽廻船の時代に幕をとじる
 こととなる。*****

  概ね以上のとおり国史大辞典第11巻(吉川弘文館)に記載されている。
  なお、この項目を本書で担当したのは、近世海運史の権威である柚木 学氏
 でした。この項を執筆するにあたって柚木氏が参考文献とされたのは、

     柚木 学「近世海運史の研究」
     石井謙治氏「図説和船史話」
     林 玲子氏「江戸問屋仲間の研究」
 との記載がある。




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2.菱垣廻船活躍の立役者・河村瑞賢

 「菱垣廻船と天下の台所・大阪」を大発展に導いた立役者・河村瑞賢について、
ご紹介致します。
 平成11年10月19日付既配信メール「大阪港からの発信です(99−06)」にて
お知らせしましたものです。

・13歳で天職を求めて江戸へ出る(1630年)。
  車力を仕事としており、車力十兵衛と呼ばれた。
  その後材木業、土建業を始め、実績を積んだ。
  1657年(明暦3年)明暦の大火(江戸の大火)に際し、木曾にいち早く赴き、
 材木の買占めをやり、巨万の富を手に入れた。江戸の大火の後、
 江戸に人口の集中が顕著になる。
  江戸の大火で焼け落ちた江戸城本丸、二の丸の修復なども手がけ、
 当時の幕府から絶大な信用を得る。

・1699年(元禄12年)、82歳で没するまでの間に、彼は色々な分野で歴史上に
 名の残る事業を成し遂げたが、なかでも特に有名なものは、
 「奥羽海運の革新」と 「畿内の治水」であるとされています。
  ともに「菱垣廻船と天下の台所・大阪の確固たる確立」を語る上で、
 極めて重要な事柄でしょう。
  詳しくはホームページでご紹介致しますが、ここでは菱垣廻船発展の
 重要な側面であります「奥羽海運の革新」についてのみ簡単にご紹介致します。

・奥羽海運の革新と瑞賢
  江戸の人口急増とともに、当初は幕府の直轄領での御城米すなわち
 天領の産米数万石を江戸に輸送するもこが急務となり、ここで幕府は
 瑞賢を起用した(1670年)。
  それまでも各藩の領主米など、江戸への輸送があったが、量的にはわずか
 であり、輸送の経路・航路も迅速性、安全性、経済性において合理性を欠く
 ものであったようです。
  ここで瑞賢がやったことは、
 1.積み出しから江戸への搬入にいたるまでの航路事情の詳細な調査、
  地理的な調査、気象の調査 
 2.堅牢な船の確保、海域情報に詳しい船員、質の高い船員の確保
 3.各種規制の緩和、利益平等の原則、幕府の保護を与える、無駄な経費の節減
  等を基本として、幕府に「運航計画書」を提出。
   1672年(寛文12年)までには「東回り航路」及び「西回り航路」が確立された。

   この過程で、気象上の安全面、補給面などから寄港地が定められたこと、
  あるいは陸上の「関所」に相当する「船番所」が設けられ、各地で各藩の保護を
  得られたこと。
   さらに寄港地にては「立務所」が設けられ、船の立ち入り検査、
  難破船その他の海難が生じた場合の原因調査、対策、さらには
  共同海損の取り扱い方まで行われた。

   「東廻り航路」では、それ以前は宮城県仙台の南、阿武隈川の河口荒浜に
  集結、船積みされた天領の産米は海路茨城県の利根川を遡り、江戸に搬入
  する方法がとられていた。
   それをダイレクトに江戸湾に向けることを可能とする種種の方策がとられた。

   「西廻り航路」では、それ以前は、北陸、東北諸藩の物資を畿内に輸送する
  ルートは多くが日本海沿岸を西航して越前の敦賀、あるいは若狭の国小浜
  に陸揚げ、陸路琵琶湖の北岸より琵琶湖の水運により琵琶湖の大津に達し、
  そのあと陸路京都、大坂に輸送されていた。
   又江戸への物資の輸送の多くが日本海を北上し、津軽海峡をわたって
  江戸に輸送されていた。
   この航路は当時の船にとっては安全面から極めて厳しい環境であった。
   視界不良、時化などで江戸まで無事にたどり着く歩留まりは悪かった
  ようである。

   1672年瑞賢が幕府から命を受けて確立した輸送方法は、出羽の国
  (秋田県・山形県)の御城米を最上川の河口の酒田に集積、海路
  下関廻りで瀬戸内海を経由して大坂に入る方法であった。
   航海距離は遥かに遠くなったが、かえって時間の短縮になるとともに、
  コスト面、商品の状態等、すこぶるよろしく高い評価となった。

   菱垣廻船のスタートは、文献によると。。。
  「1619年(元和5年)和泉の国堺の商人が紀伊の国富田浦の250石積みの
  廻船を借り受け、大坂から江戸へ生活物資を輸送したことにはじまる。」
  とされている。
   一方1627年に菱垣廻船問屋5軒(船問屋であり、所有船のほか、船を
  タイムチャーターして支配下においている問屋。荷主からは運賃をもらう
  現在の海運の原型といってよいのでは?)の成立。
   現在の船のオペレーター組合とか海運同盟みたいなものとおもわれる。
 
   これに対して荷主側の組織(現在で云えば商社の共通運賃同盟の組織?)
  である「江戸十組問屋」の成立は、1694年(元禄7年)であり、これの成立を
  きっかけに菱垣廻船の全盛期を迎える。
 
   最盛期の菱垣廻船の数は年間延べ航海数で大坂から江戸まで1300艘が
  就航している(最盛期1700年から1703年までの3年間の年間平均)。
   1艘の廻船で年間5仕建(往復)として当時の廻船実数は260隻になる。
   所要日数は早いので10日、おそいので2ヶ月程であったとの記録がある。
   平均では27日との記録がある。

   ここでいう菱垣廻船とは従来からの西国からの貨物を大坂経由で江戸に
  輸送するものは勿論、北陸東北の荷物を西廻り航路で大坂経由ダイレクト
  に江戸に向かうものも含まれる。
   奥羽海運と瑞賢のかかわりは、以上のとおりです。

   瑞賢が果たした役割は、巨大な人口・消費地になった江戸へ安定的に
  消費物資を輸送する為、菱垣廻船が十二分に機能する環境を早い時期に
  整備したことにありましょう。
 
  また、当然のことながら、全国からものすごい量の物資が大坂に移入し、
  それらを順調に船積みさせるには港の整備が不可欠でした。
   これまた幕府の命令で瑞賢が「畿内の治水」に大きな役割を演ずるわけです。


3.500以上の船舶の建造禁止、船舶の構造の規制など当時の鎖国政策のなかで、
  菱垣廻船はどのような構造上の影響を受けているのか?
  また、菱垣廻船の運航上の特徴は何であったのか??
  (平成11年12月末現在工事中です。)


菱垣新綿番船川口出帆之図
 


 この錦絵(船絵馬)は、(社)大阪港振興協会が隔月で発行している雑誌「OSAKA PORT」
50巻・1号(No232)January1999に掲載されているものです。
 菱垣廻船の出帆風景を表した極めて有名な船絵馬で、原画(版画)は大阪城天守閣
博物館所蔵のものです。
   「和船史」の権威・石井謙治氏は、これと全く同じ原画を所蔵しており、石井さんの代表的な
著書の一つであります「図説・和船史話」(昭和58年刊行)のなかで、この「菱垣新綿番船
川口出帆之図」について、つぎの通り説明しております。
                   
 「新綿番船とは、その年の秋にできた新綿を大坂から江戸へ運ぶレースに参加する船の
ことで、菱垣廻船の年に一度の華々しい行事であった。 大坂を出帆し、ゴールの浦賀への
到着順番をきそうことから番船と呼ばれたが、その順位が賭けの対象となるほど当時の人々
の人気を集めた。
   図は、レース参加の切手(手形)を安治川岸に臨時に設けられた「切手場」に、先を争って
受け取りに来る番船の伝馬船7隻と、それを見物する多数の屋形船や川岸の群集のお祭り
騒ぎを描いたものである。
  7隻の番船は、この川岸を下った天保山(目印山)から出帆するのであるが、この絵では、
日本画独特の空間移動法を使って画面右上に描いているから、そのつもりで見てもらいたい。
  なお、川岸の倉庫群は、菱垣廻船問屋と樽廻船問屋のものである。」
        (以上が石井氏の解説です。)
                
  菱垣廻船が最も興隆を極めたのは、17世紀末から18世紀初頭にかけてであるが、新綿番船
が制度化されたのは、江戸積十組問屋が成立した元禄7年(1694年)にその起源を求めることが
できる。との記載が「新修大阪市史第3巻」にある。



4.おわりに。および参考文献

 今から300年前の江戸時代に、天下の台所として栄えた大坂、
その大坂の繁栄を支えた菱垣廻船の活躍の脚本を書いたのは
大坂商人を支えてきた大坂の人々であるといえよう。
 
 現在の大阪築港にある天保山公園には天下の台所として
栄えた大坂の玄関口「天保山」、江戸時代に脚光を浴びた名所・天保山に
まつわる有名な大型の壁画合計四枚が石材タイルで複製展示されている。

 このなかの一つに、天保山名所図会(ずえ)「大浚(おおさらえ)」がある。
現在の大阪港港内には、西から正蓮寺川、安治川、尻無川、木津川、大和川と
4本の川が流れこんでいるが、これらのうちの一つ安治川の川尻に数百艘の手漕ぎ
舟を出して長柄の手杓で川底に堆積した土砂を浚えている図会である。
 この大浚えに毎年積極的、かつ自主的に従事したのはすべて大坂の町人である。

 中世の時代より、営々として「上方」の台所、お江戸の「天下の台所」を
支えてきた大坂。
 壁画の図会は、この「大坂の繁栄は港から」とする大坂商人を支える
大坂市民の「団結と心意気」を見事なまでに後世に伝えている。

 平成11年秋、大阪港も開港130周年を迎え、祝典行事が行われた。
安土・桃山から江戸時代まで400年続いた大阪の繁栄の原点となったものは
何か??

 今一度江戸時代の寵児・河村瑞賢の人物像からヒントを求めたい。
 
 車引き十右衛門こと、後の河村瑞賢は、お江戸の当時から大坂商人、町民の
「人の生き方のお手本」であった。
 すなわち、日本海運史の研究について重鎮であった古田良一氏の人物叢書
「河村瑞賢」によると瑞賢の人物像は。。。

***車力から身を起こして一代の近世的実業家となった瑞賢は、紀伊国屋文左衛門
 とも引肩され、その伝記はしばしば混淆される。
  瑞賢はすぐれた創意工夫により、わが国海運の革新的偉業を成し遂げたばかり
 でなく、淀川の治水工事や、越後上田銀山の経営等に特異な手腕を発揮した。***

さらに、この書物に資料として付記されている江戸、明治、昭和初期に書かれた
「瑞賢の人物像」を拾ってみると、
1.要路の顕官と結ぶ
 旅先、出張先で重要人物(地位の高い官吏など)と会い、懇意になっておことが
 商人としての秘訣
2.当意即妙の才
 発明、アイデアの才にたけており、つねに斬新な考えにもとづく手段。
3.人心収攬
 自分だけの利潤を追求する事はしない。
4.自分の足と目で綿密な調査を行うとともに、周到な用意を怠らない。

その他、「質素倹約」「塵も積れば山」「濡れ手で粟の儲けを望んではならない」
「商売に際し、公衆一般の利益を忘れるな」「徳の人、智の人、勇の人」
「創意工夫の勇」「多くの人材を側に置き、意見を聞く」などが特記されている。
 

参考文献:

 本稿ホームページ「菱垣廻船と天下の台所・大坂の役割」掲載にあたって
 使用した参考文献は、
 1.図説・和船史話     石井謙治氏著 至誠堂
 2.近世海運史の研究    柚本 学氏著 法政大学出版局
 3.江戸問屋仲間の研究   林 玲子氏著 御茶ノ水書房
 4.河村瑞賢        古田良一氏著
 5.大阪市史第5             大阪市編
 6.新修大阪市史 第5巻         大阪市編
 7.国史大辞典第11巻          吉川弘文館
 8.日本歴史大辞典第8巻         河出書房
 9.日本史大辞典第2巻          吉川弘文館
10.日本史大辞典 第2巻、第5巻      平凡社
 

                     以上でおわり。


 

                                
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