2.菱垣廻船活躍の立役者・河村瑞賢
「菱垣廻船と天下の台所・大阪」を大発展に導いた立役者・河村瑞賢について、
ご紹介致します。
平成11年10月19日付既配信メール「大阪港からの発信です(99−06)」にて
お知らせしましたものです。
・13歳で天職を求めて江戸へ出る(1630年)。
車力を仕事としており、車力十兵衛と呼ばれた。
その後材木業、土建業を始め、実績を積んだ。
1657年(明暦3年)明暦の大火(江戸の大火)に際し、木曾にいち早く赴き、
材木の買占めをやり、巨万の富を手に入れた。江戸の大火の後、
江戸に人口の集中が顕著になる。
江戸の大火で焼け落ちた江戸城本丸、二の丸の修復なども手がけ、
当時の幕府から絶大な信用を得る。
・1699年(元禄12年)、82歳で没するまでの間に、彼は色々な分野で歴史上に
名の残る事業を成し遂げたが、なかでも特に有名なものは、
「奥羽海運の革新」と 「畿内の治水」であるとされています。
ともに「菱垣廻船と天下の台所・大阪の確固たる確立」を語る上で、
極めて重要な事柄でしょう。
詳しくはホームページでご紹介致しますが、ここでは菱垣廻船発展の
重要な側面であります「奥羽海運の革新」についてのみ簡単にご紹介致します。
・奥羽海運の革新と瑞賢
江戸の人口急増とともに、当初は幕府の直轄領での御城米すなわち
天領の産米数万石を江戸に輸送するもこが急務となり、ここで幕府は
瑞賢を起用した(1670年)。
それまでも各藩の領主米など、江戸への輸送があったが、量的にはわずか
であり、輸送の経路・航路も迅速性、安全性、経済性において合理性を欠く
ものであったようです。
ここで瑞賢がやったことは、
1.積み出しから江戸への搬入にいたるまでの航路事情の詳細な調査、
地理的な調査、気象の調査
2.堅牢な船の確保、海域情報に詳しい船員、質の高い船員の確保
3.各種規制の緩和、利益平等の原則、幕府の保護を与える、無駄な経費の節減
等を基本として、幕府に「運航計画書」を提出。
1672年(寛文12年)までには「東回り航路」及び「西回り航路」が確立された。
この過程で、気象上の安全面、補給面などから寄港地が定められたこと、
あるいは陸上の「関所」に相当する「船番所」が設けられ、各地で各藩の保護を
得られたこと。
さらに寄港地にては「立務所」が設けられ、船の立ち入り検査、
難破船その他の海難が生じた場合の原因調査、対策、さらには
共同海損の取り扱い方まで行われた。
「東廻り航路」では、それ以前は宮城県仙台の南、阿武隈川の河口荒浜に
集結、船積みされた天領の産米は海路茨城県の利根川を遡り、江戸に搬入
する方法がとられていた。
それをダイレクトに江戸湾に向けることを可能とする種種の方策がとられた。
「西廻り航路」では、それ以前は、北陸、東北諸藩の物資を畿内に輸送する
ルートは多くが日本海沿岸を西航して越前の敦賀、あるいは若狭の国小浜
に陸揚げ、陸路琵琶湖の北岸より琵琶湖の水運により琵琶湖の大津に達し、
そのあと陸路京都、大坂に輸送されていた。
又江戸への物資の輸送の多くが日本海を北上し、津軽海峡をわたって
江戸に輸送されていた。
この航路は当時の船にとっては安全面から極めて厳しい環境であった。
視界不良、時化などで江戸まで無事にたどり着く歩留まりは悪かった
ようである。
1672年瑞賢が幕府から命を受けて確立した輸送方法は、出羽の国
(秋田県・山形県)の御城米を最上川の河口の酒田に集積、海路
下関廻りで瀬戸内海を経由して大坂に入る方法であった。
航海距離は遥かに遠くなったが、かえって時間の短縮になるとともに、
コスト面、商品の状態等、すこぶるよろしく高い評価となった。
菱垣廻船のスタートは、文献によると。。。
「1619年(元和5年)和泉の国堺の商人が紀伊の国富田浦の250石積みの
廻船を借り受け、大坂から江戸へ生活物資を輸送したことにはじまる。」
とされている。
一方1627年に菱垣廻船問屋5軒(船問屋であり、所有船のほか、船を
タイムチャーターして支配下においている問屋。荷主からは運賃をもらう
現在の海運の原型といってよいのでは?)の成立。
現在の船のオペレーター組合とか海運同盟みたいなものとおもわれる。
これに対して荷主側の組織(現在で云えば商社の共通運賃同盟の組織?)
である「江戸十組問屋」の成立は、1694年(元禄7年)であり、これの成立を
きっかけに菱垣廻船の全盛期を迎える。
最盛期の菱垣廻船の数は年間延べ航海数で大坂から江戸まで1300艘が
就航している(最盛期1700年から1703年までの3年間の年間平均)。
1艘の廻船で年間5仕建(往復)として当時の廻船実数は260隻になる。
所要日数は早いので10日、おそいので2ヶ月程であったとの記録がある。
平均では27日との記録がある。
ここでいう菱垣廻船とは従来からの西国からの貨物を大坂経由で江戸に
輸送するものは勿論、北陸東北の荷物を西廻り航路で大坂経由ダイレクト
に江戸に向かうものも含まれる。
奥羽海運と瑞賢のかかわりは、以上のとおりです。
瑞賢が果たした役割は、巨大な人口・消費地になった江戸へ安定的に
消費物資を輸送する為、菱垣廻船が十二分に機能する環境を早い時期に
整備したことにありましょう。
また、当然のことながら、全国からものすごい量の物資が大坂に移入し、
それらを順調に船積みさせるには港の整備が不可欠でした。
これまた幕府の命令で瑞賢が「畿内の治水」に大きな役割を演ずるわけです。
3.500以上の船舶の建造禁止、船舶の構造の規制など当時の鎖国政策のなかで、
菱垣廻船はどのような構造上の影響を受けているのか?
また、菱垣廻船の運航上の特徴は何であったのか??
(平成11年12月末現在工事中です。)
菱垣新綿番船川口出帆之図
この錦絵(船絵馬)は、(社)大阪港振興協会が隔月で発行している雑誌「OSAKA PORT」
50巻・1号(No232)January1999に掲載されているものです。
菱垣廻船の出帆風景を表した極めて有名な船絵馬で、原画(版画)は大阪城天守閣
博物館所蔵のものです。
「和船史」の権威・石井謙治氏は、これと全く同じ原画を所蔵しており、石井さんの代表的な
著書の一つであります「図説・和船史話」(昭和58年刊行)のなかで、この「菱垣新綿番船
川口出帆之図」について、つぎの通り説明しております。
「新綿番船とは、その年の秋にできた新綿を大坂から江戸へ運ぶレースに参加する船の
ことで、菱垣廻船の年に一度の華々しい行事であった。 大坂を出帆し、ゴールの浦賀への
到着順番をきそうことから番船と呼ばれたが、その順位が賭けの対象となるほど当時の人々
の人気を集めた。
図は、レース参加の切手(手形)を安治川岸に臨時に設けられた「切手場」に、先を争って
受け取りに来る番船の伝馬船7隻と、それを見物する多数の屋形船や川岸の群集のお祭り
騒ぎを描いたものである。
7隻の番船は、この川岸を下った天保山(目印山)から出帆するのであるが、この絵では、
日本画独特の空間移動法を使って画面右上に描いているから、そのつもりで見てもらいたい。
なお、川岸の倉庫群は、菱垣廻船問屋と樽廻船問屋のものである。」
(以上が石井氏の解説です。)
菱垣廻船が最も興隆を極めたのは、17世紀末から18世紀初頭にかけてであるが、新綿番船
が制度化されたのは、江戸積十組問屋が成立した元禄7年(1694年)にその起源を求めることが
できる。との記載が「新修大阪市史第3巻」にある。
4.おわりに。および参考文献
今から300年前の江戸時代に、天下の台所として栄えた大坂、
その大坂の繁栄を支えた菱垣廻船の活躍の脚本を書いたのは
大坂商人を支えてきた大坂の人々であるといえよう。
現在の大阪築港にある天保山公園には天下の台所として
栄えた大坂の玄関口「天保山」、江戸時代に脚光を浴びた名所・天保山に
まつわる有名な大型の壁画合計四枚が石材タイルで複製展示されている。
このなかの一つに、天保山名所図会(ずえ)「大浚(おおさらえ)」がある。
現在の大阪港港内には、西から正蓮寺川、安治川、尻無川、木津川、大和川と
4本の川が流れこんでいるが、これらのうちの一つ安治川の川尻に数百艘の手漕ぎ
舟を出して長柄の手杓で川底に堆積した土砂を浚えている図会である。
この大浚えに毎年積極的、かつ自主的に従事したのはすべて大坂の町人である。
中世の時代より、営々として「上方」の台所、お江戸の「天下の台所」を
支えてきた大坂。
壁画の図会は、この「大坂の繁栄は港から」とする大坂商人を支える
大坂市民の「団結と心意気」を見事なまでに後世に伝えている。
平成11年秋、大阪港も開港130周年を迎え、祝典行事が行われた。
安土・桃山から江戸時代まで400年続いた大阪の繁栄の原点となったものは
何か??
今一度江戸時代の寵児・河村瑞賢の人物像からヒントを求めたい。
車引き十右衛門こと、後の河村瑞賢は、お江戸の当時から大坂商人、町民の
「人の生き方のお手本」であった。
すなわち、日本海運史の研究について重鎮であった古田良一氏の人物叢書
「河村瑞賢」によると瑞賢の人物像は。。。
***車力から身を起こして一代の近世的実業家となった瑞賢は、紀伊国屋文左衛門
とも引肩され、その伝記はしばしば混淆される。
瑞賢はすぐれた創意工夫により、わが国海運の革新的偉業を成し遂げたばかり
でなく、淀川の治水工事や、越後上田銀山の経営等に特異な手腕を発揮した。***
さらに、この書物に資料として付記されている江戸、明治、昭和初期に書かれた
「瑞賢の人物像」を拾ってみると、
1.要路の顕官と結ぶ
旅先、出張先で重要人物(地位の高い官吏など)と会い、懇意になっておことが
商人としての秘訣
2.当意即妙の才
発明、アイデアの才にたけており、つねに斬新な考えにもとづく手段。
3.人心収攬
自分だけの利潤を追求する事はしない。
4.自分の足と目で綿密な調査を行うとともに、周到な用意を怠らない。
その他、「質素倹約」「塵も積れば山」「濡れ手で粟の儲けを望んではならない」
「商売に際し、公衆一般の利益を忘れるな」「徳の人、智の人、勇の人」
「創意工夫の勇」「多くの人材を側に置き、意見を聞く」などが特記されている。
参考文献:
本稿ホームページ「菱垣廻船と天下の台所・大坂の役割」掲載にあたって
使用した参考文献は、
1.図説・和船史話 石井謙治氏著 至誠堂
2.近世海運史の研究 柚本 学氏著 法政大学出版局
3.江戸問屋仲間の研究 林 玲子氏著 御茶ノ水書房
4.河村瑞賢 古田良一氏著
5.大阪市史第5 大阪市編
6.新修大阪市史 第5巻 大阪市編
7.国史大辞典第11巻 吉川弘文館
8.日本歴史大辞典第8巻 河出書房
9.日本史大辞典第2巻 吉川弘文館
10.日本史大辞典 第2巻、第5巻 平凡社
以上でおわり。