11.水の都・大阪港のあゆみ 「難波洲」から「ベイエリア」まで
   (Osaka  Bay Side Story & History)

   
大阪市港湾局企 画監修による大阪港特集が平成15年4月1日海事プレス社(本社東京)
  より「大阪ベイエリア・クルージング」4月臨時増刊号として発刊されました。
  この特集のなかで「水の都(みやこ)」を担当させていただきました。
  本稿では掲載原稿に幾分加筆いたしております。


                                 阪神パイロット 稲葉八洲雄

 文明は河川沿岸に発祥する。
 大阪の水利が古代王朝の果たした役割は非常に大きい。
 飛鳥の宮、藤原京、平城京、長岡京、平安京。。。この「都市」には、それぞれ
文明発祥に欠かせない水利に都合の良い大河(淀川および大和川)が流れ、それらは
すべて大阪湾に流れ込んでいる。

歴史絵巻のプロローグ

 大阪港は国内有数のクルーズポートでもある。
大阪港に入港する客船の多くは、とびきり朝早くパイロットの乗船を待つ。
 当然のこと。大阪港に帰港する目的は、滞在中船客のほとんどが日本文化の発祥地であり、
日本の歴史絵巻でもある場所を一目見ようと期待しているからだ。
 船客にとって奈良京都への日帰り観光が大きな楽しみとなっている。限られた時間の中で
ご期待に沿うには、入港着桟が一分でも早いほうが良い。

 本船乗船から着桟までの少ない時間ではあるが、船長さんとの瞬時の会話も楽しい
ひとときだ。
 「キャプテン!!やはり本日のお客さんも奈良京都がターゲットですか?」
 「そのとおりだ。パイロットさん。」
 「キャプテン。日本全国が入っている海図を出して下さいな!!よろしかったら大阪の
歴史絵巻を簡単にご説明させていただきますよ。」と船長さんの横顔を観察しながら
船長さんご自身の関心度を推し量る。

 お客様へのサービス精神の旺盛な船長さんの場合は、すぐにわかる。
 大抵は、本船が大阪港大関門にさしかかる頃から、キャプテンは船内マイクを片手に
大阪港の景観の説明に入る。
   
    南港ポートタウン(大阪港振興協会提供)

「右舷に見える高くそびえるビルは、コスモタワーと云って西日本一高さ254メートルのビル。
そのそばの派手な建物はATCというアジアパシフィックトレイドセンターで、最近の大阪の若者が
賑わう場所だ。
 その前方に見える橋は港大橋といって大阪港の現代のめざましい発展の歴史の象徴だ。
 その左に見える風変わりな建物は、海遊館といって“どでかいジンベイ鮫”が日本国中の
人々の人気の的となっている。

 その左隣が本船がこれから着桟する天保山客船桟橋の少し奥にある安治川大橋であり、
港大橋同様大阪湾の半円周を通っている高速道路。

 本船の左舷至近に見える人工島は夢洲、舞洲でいつか将来オリンピック開催が可能な
運動施設が軒を並べている。
 夢洲の手前側岸線にはコンテナ船用の大水深高規格バースであり昨年供用開始された。」
   
   新装間もない天保山岸壁に入港した「サガフィヨルド」(昭和63年)
   
(大阪港振興協会提供)


   

   オープン当時の海遊館(1993年)(大阪港振興協会提供) 
 
この船長さん、えらく大阪に詳しいと思って訪ねてみたら、前に別の船会社で、しょっちゅう
大阪にきていたとのこと。
 マイクでの船内放送が終るのを待って、船長さんが持ち出した海図を指さし、併せて
大阪港の遠景を見ながら「大阪の歴史絵巻」のおしゃべりをする。

「船長さん!右舷船首遠くに見える山々が生駒山系で、その右側が金剛山系といって
共に大阪の水運、水の路、古代からの日本の繁栄の歴史をすべてを見つめてきた
生き証人なのです。その手前の広い平原が大阪平野といい、その中心付近で千数百年に
亘る日本の歴史が培われてきたところ。

   
  
「河川の付け替え概要 図」
  古田良一氏著の「河村瑞賢」(吉川弘文舘発行)より。


 大阪の歴史は、そのまま大阪港の歴史と云って良く、それはすべてが見ての通りの
大平原の中での水との戦いの歴史、西洋ではオランダに見られるものと同様、水利との
共生の歴史です。大阪は多くが海面より低い低地ばかり。

 私ども船操りを職業としている者達にとっては、すばらしい場所だと思いませんか?
 世界四大文明発祥の地と云えば、船長さん!エジプトはナイル河沿岸、メソポタミアは
チグリスユーフラテス河沿岸、中国は黄河沿岸、インドはインダス河ですね!
 日本の文明はあの山々の向こう側で発祥したのです。」

 などなど船首方向に展開されている大阪港と後背地の景観を眺めつつ、時々海図上での
場所を示しながらのしばしの会話。わずかに数分間のおしゃべりを通じて、船長さんとは
久しくお付き合いがあるような親密感が醸成される。

 大阪港大関門を入る頃には、船橋司令室もあわただしくなる。
 乗船中は船長さんも超多忙。
「船長さん!!なかなか大阪の歴史絵巻を散策する時間はないでしょうね?
退職したら是非奥様ともども当地にお出かけ下さい。
 残りのお話をさせていただくと共に、先人が辿った難波津から飛鳥、京への
歴史街道を私と一緒に散策いたしましょう。」と持ちかけると、これに答えて船長さん曰く。
「退職まで後2年です。必ず大阪を訪ねます。」とも。
 
「そうですか。船長さん、間もなくですか?感無量でしょうね?
それでは船長さんには、ちょっと早いですが…。 大阪港では最後でしょうから
 Gone to the Fiddlers Green!!と言った言葉をお贈り致しましょう。」
(この言葉、かって英国人船長さんから聞いた言葉で、円満退職、人生航路からの完全
引退時に周囲の人がお祝いの言葉として贈っている。極めて一般的に使われている由。)

 この言葉に船長さんの顔にも何とも言えぬ親しみの情が表れ、当方も入港着桟作業の
心の準備に入る。

大阪が果たしてきた歴史的な役割
 
 飛鳥の宮、藤原京、平城京、長岡京、平安京等々これらの地には、それぞれ文明発祥には
無くてはならない水利に都合の良い大河(淀川および大和川)が大阪湾に流れ込んでいる。
 当時大阪湾への出口といえば、現在の海岸線からさらに14キロほど内方を南北に走っている
上町台地(標高わずかに20メートル)の北端に当時開削された大川(現在の淀川ともいう)側岸
にできた難波津である。当時は、副都「難波の宮」(西暦645年に建立)西側までが海であった。

 また律令国家日本の歴史が始まった7世紀頃は、生駒山系、金剛山系から上町台地までの
約30キロの間は大阪湾に流れる大きな川即ち淀川と大和川が持ち込む淡水の干潟とか沼地
であったといわれている。
 
 「難波の宮」が日本の副都として大きな役割を演じてきたことは大変有名です。
 難波津が首都への表玄関口として政治、経済、商業、文化、情報、交通等のすべての
キーステーションとなっていた。
 千数百年もの間地下に埋もれていた難波の宮の発掘は、今からわずかに40数年程前のことです。
 この発掘を契機として日本の古代王朝の詳細が明らかになった。
 それほど値打ちのある発掘でした。

 文明は河川沿岸に発祥する。大阪の水利が古代王朝の発展に果たした役割は非常に
大きいと言える。
 あそこにわずかに見える大阪城天守閣は上町台地の北端に立っており、ほぼ同じ場所に副都が
存在していたわけです。
 南北に走っている上町台地の東西の幅は、わずかに2〜2.5キロ、南北は12キロ程度のもの。
 古代の副都「難波の宮」を囲んでいる広大な平坦部を大阪平野という。
 古代の律令国家はすべて淀川あるいは大和川沿岸で成立していた。

 また当時の難波津は、東西貿易の東側の表玄関口と云われており、一説では海上シルクロードの
東側終着駅とも云われている。 
 現在の大阪、ベイエリアー構想が活気を帯びてきたが、すでに千数百年以上も前から国内随一の
ベイエリアーであったと言えよう。
 上記上町台地の北端周辺にあった難波津、現在の大阪城の北側で天満橋、淀屋橋付近で
あったといわれている。

  江戸時代、大阪は天下の台所として経済的な地盤のみならず、文化、情報のすべてが集積し
国内では確固たる基盤が築かれていたが、天下の台所としての役割は、上方であった奈良、平安から
戦国、豊臣の時代においても同様の主役を演じてきたと言えよう。

     
「菱垣新綿番船川口出帆之図」(大阪港振興協会提供)
新綿番船とは、その年の秋にできた新綿を 大阪から江戸にレースに参加する
船のことで、菱垣廻船の年に一度の華々しい行事であった。大阪市海洋博物館である
“なにわの海の時空間”には当時の千石船である菱垣廻船の実寸復古船が展示されて
いる。



治水工事の完成

 
 その後の「水の都」大阪の歴史、水運の歴史、水害の歴史、大阪の発展の歴史。
 現在の国際港湾大阪港への飛躍までには特筆すべき治水工事が行われている。

 とくに水害対策で大きな貢献をした事業を人物と共にを紹介しよう。
古くは西暦784年当時摂津大夫の地位にあった和気清麻呂が行った数多くの事業がある。
 その一つが淀川の水を三国川に分ける工事である。
 淀川の河口が浅く船の出入りに不都合であったのと、当時の三国川(現在の神崎川)の河口の方が
水深が深く、そのため淀川は摂津市南部の江口(現在の地名も同じ)から西方3キロの三国川までに
人工の運河幅30メートルを開削した。
 開削後の江口の町は、大阪京都の交通の要路としても大いに賑わった。

 同じく和気清麻呂の試みとして大和川の付け替え、後生江戸時代に完成した付け替え工事があった。
 この時代(西暦788年)20万人もの動員をした大事業であったがこの時は失敗に終わったとの記録がある。

 時代は変わり、秀吉が天下統一後、京都の伏見と大阪の間28キロもの間、主として
淀川中流域で氾濫常習箇所にあたる箇所の堤防工事である。淀川左岸に点在する洲を連絡させる形で
大がかりな堤防であった。
 文禄5年(1596年)であったことから、当時「文禄提」と呼ばれ、京都から大阪までの最短距離の交通の要路
としても栄えた。人はここを京街道と呼んでいた。
   
          浪花百景

                                   
                                                 大坂天保山


 江戸時代には、幕府の命で河村瑞賢により淀川 の下流にある九条島の開削が行われている。
  島を真っ二つに割って淀川の流れをスムースにした。
 1684年2月11日より,わずか20日間で安治川新運河が完成したとの記録がある。
 町民総出で工事が行われたという。 現在の客船桟橋のある安治川の誕生である。
 関西汽船の往時の埠頭弁天埠頭より上流に長さは2.5km,幅はほぼ50〜60mと一定。
  現在の地名では南端の弁天埠頭から北東に伸び堂島川と土佐堀川が合流する
中之島の西端(河口町1丁目)までの間である。
 
 さらには江戸時代の同じ頃、大和川の大量の土砂が淀川に持ち込まれぬようにするための
付け替え工事が行われた。
 大和川は、現在もある地名柏原で南から流れ込む石川と合流しさらに北に流れて長柄付近で
同じく淀川に合流していた。
 これを柏原から西方に流れの向きを変え、大阪湾までの約20キロを開削した。
 わずか8ヶ月間で出来上がった(1703年)との記録がある。
  
 明治維新に及ぶまでの各種水害対策工事の総集編として、大阪の港のみならず、大阪市民を水害から
守るための大工事、淀川の付け替え工事(淀川大改修)がある。
 明治29年デ・レーケの案を参考にして、明治30年築港事務所長西村捨三のもと、当時の内務省
第5土木監督署長であり、築港事務所工事長を兼務した沖野忠雄により着工。
  着工後13年後の明治42年竣工。
 この事業は大阪における治水事業の完成を意味し、明治30年築港修復工事のスタートとともに
大阪および大阪港の新しい歴史の幕開けとなった。

   
       明治時代の大阪港 (大阪港振興協会提供)
     
         明治中期の天保山沖(大阪港振興協会提供)

 淀川の洪水被害に関する記録は数限りなくあるが、そのうち津波被害とも云われている
大きな災害を蒙っている。 
 最近関西でも南海大地震の時期と規模のシミュレーションが話題を呼んでいる。
 前回の南海大地震発生以来、ぼちぼち150年が経過するためだ。
 フィリッピン海プレートの変動によるもので、およそ150年間に一度発生している
という。
 
 大阪湾の最奥に位置する大阪港の場合は発生した場合の被害は想像に難くない。
 前回の南海大地震は、1854年(嘉永7年)に発生し、その前は1707年(宝永4年)に発生している。
 大阪平野に溢れて氾濫し大きな被害が発生した件数は、上記地震災害の有無に拘わらず
数限りなく発生している。淀川の計画高水位6.36メートルを超えたケースは昭和28年(1953年)の
台風13号以降現在までに4回を数えている。

 明治維新。1868年7月大阪開港と同時に外国人居住の為の川口居留地が競売に出された。
 九条島が江戸時代東西に切り離され、その東側の本島の先端に造成された川口居留地。
その先端に現在もある船津橋で東側から流れ込んでいる木津川と合流しているが、その
木津川の東側側岸で、木津川西岸に建設された居留地と向かい合わせる形で、大阪府庁が設置された。

 当時全国の物産が集積する大阪は外国でも評判が高かった。
 川口居留地の競売においては、単位面積あたりの値段は、神戸の2倍の高値であった
にも拘わらず、わずかに数日で完売された。
 スタート時多くの外国人で賑わった川口居留地であったが、開港直後から厳しい現実に
直面した。おそらく古代「難波の津」以来の繁栄を続けてきた大阪の歴史の中で始めて経験する
試練であったと思われる。

 2年後には居留地に在留する外国人は次第に兵庫港(現在の神戸港)に移転していった。
 理由は、当時の大阪は現在で云う内航貨物で経済的には十分に潤っており、外国貿易への好奇心、
チャレンジへの必要性がいま一つであったこと、さらにはこれまでの内航船と異なり外国の大型船の
入港には、大阪港の水深は不十分であったことが原因だった。
 このような予測と異なった環境の変化に大阪港は千数百年の輝かしい歴史の中で
唯一の試練に遭遇することとなった。

大阪港・国際港湾誕生への道のり

  しかしながら常に水害との戦いの中で培われてきた大阪の胆力と気力、それに市民の力の結集があった。
  河川港大阪のアキレス腱でもあった港内水深の問題解決、水害との戦いに終わりを告げるため、大阪の
築港工事計画図が明治27年オランダから招聘された
オランダ人技師デ・レーケにより完成し、明治30年に第一次修築工事がスタートした。
 当時の市予算の約20倍もの巨費を投じた日本における最大の土木事業であった。
 着工から33年を経た昭和4年に終了した。

 築港事業を成功裏に終わらせることができた要因として明治6年に来日したオランダ人技師デ・レーケが
果たした役割は大きい。 日本を去る明治36年までの30年間の長期に亘り当時の日本の技術では
克服できなかった各種の手法で難題を解決していった。
 現在も残る大阪港の原型は、デ・レーケの遺産である。

   
 大阪経済を象徴する大阪鉄工所櫻島造船所の進水式(大阪港振興協会提供)


 
   
        昭和9年頃の大阪築港(大阪港振興協会提供)



  
        昭和初期の大阪港築港大桟橋(大阪港振興協会提供) 

 余談ではあるが、大阪市民以外にも広く一般に知られている「みおつくし」(澪標)が大阪市章となったのは、
明治27年3月26日の市会である。
 この澪標は、古来「難波の津」の津頭に設置され「通航する船に澪を知らせるために立てた杭」であり、
水脈の杭ということになる。
 木津川、安治川では、それぞれ一番から十番まで設置されていたとの記述がある。
 天保山公園の壁画には南粋亭芳雪の作である”みおつくし天保山”「浪花百景」が他の数枚の
江戸時代の錦絵とともに飾られている。

 昭和4年築港第1次修築工事の終了後、引き続いて同年中に始まった第2次修復工事や
昭和9年の室戸台風被災復旧・復興工事を経て港湾施設はさらに拡充した。
 この間昭和12年には大阪港入港船舶数は戦前のわが国最高の22万343隻に達した。
 さらに昭和14年には大阪港の貨物取り扱い量が全国一位の3,126万232トンを
記録している。

 大阪湾の最奥に配置され西に開口した大阪港。
国内他港には比較できないほどの台風災害の歴史がある。
 それらをもう一度思い起こしてみよう。

 昭和9年9月21日朝近畿一円を襲った室戸台風。
 潮位は大阪港天保山検潮所でOP上5.1メートルに達した。
 大阪市における死亡者・行方不明者は990名、重軽傷者3,996名、家屋全壊1,932戸、
流失300戸、半壊7,340戸を数えた。また高潮発生により洪水の先端は大阪城のある
上町台地際まで海水が襲った。

 昭和25年9月3日朝京阪神地方に大きな災害をもたらしたジェーン台風。
瞬間最大風速59.1メートルという猛威を振るいながら室戸岬を通過。大阪でも最大風速
44メートルを記録した。室戸台風同様大阪は大阪城のある上町台地まで海水が襲った。
 高潮時の最高潮位はOP上3.85メートルと室戸台風より低かったが、昭和10年代に
大阪市西部では地盤沈下が1〜2メートルも進行していた為海面は防潮堤を超え
浸水した区域は室戸台風のそれを大きく上まわった。

 大阪市内の被害状況を見ると、死亡・行方不明者221名、重軽傷者18,573名、家屋全壊5,120戸、
流失731戸、半壊40,554戸、床上浸水41,035戸、床下浸水26,899戸を数えた。
 その他大阪港付近で沈没した船舶数10隻、座礁揚陸船舶48隻、行方不明船舶15隻を数えた。
 そのうち1万トンを超える捕鯨母船「橋立丸」が大正区鶴町の護岸上に揚陸するほどの有様で
港湾機能は完全に麻痺した。

   
 ジェーン台風で第二突堤に打ち上げられた船舶(大阪港振興協会提供)

 ジェーン台風による被害を契機に、大阪市・大阪府は総合的且つ本格的な防災対策の検討に入った。
 昭和25年11月総事業費114億7,200万円に及ぶ西大阪総合高潮対策事業計画を策定した。
 しかしながら計画途上で新たに、昭和36年9月16日第2室戸台風が襲来した。
 瞬間最大風速75メートルは、室戸台風、伊勢湾台風を上回った。
 最高潮位はOP上4.12メートル、高潮は室戸台風時でも被害の無かった大阪城のある上町台地周辺を襲い、
都心の中之島一帯は海水が防潮堤を超えてきた。
 高潮対策は、前述の西大阪総合高潮対策事業計画に引き続き、継続して講じられ
昭和45年にはほぼ完了した。
 その結果、防潮堤の延長60キロ、防潮扉の数は400基に達している。

   
     復興した中央突堤地区 (大阪港振興協会提供)

 以上のとおり大事業である高潮対策その他の治水事業に並行して大阪港は堅実な港湾設備の
拡充を計ってきている。
 昭和49年7月には、湾岸道路が走る港大橋が開通、南港のコンテナ船岸壁C1からC5まで全バースが
昭和54年2月までに供用開始された。
 さらには南港R岸の全5バースも昭和55年7月までに供用開始、C6,C7が平成4年6月、C8、C9岸も
平成5年10月までにそれぞれ供用開始された。

 以来大阪港もわが国の重要な関西の国際コンテナポートとして飛躍を遂げている。

   
        夢洲イメージ図 (大阪港振興協会提供)


   
       舞洲スポーツアイランド(大阪港振興協会提供) 

 平成9年10月大阪港は築港100周年、開港130周年記念式典を盛大に行った。
 当時すでに大阪港は、年間入港隻数は、総数では神戸、千葉、北九州に次いで第4番目、
外航船隻数は、横浜、名古屋、神戸に次いで第4番目、内航船隻数でも、千葉、神戸、北九州に
次いで第4番目と、いずれも隻数において 我が国を代表する港湾の一つに数えられる程に
成長を遂げている。

 この間昭和63年には客船クイーンエリザベス2世号が始めて大阪港に入港し、以来大阪港への
外国客船の入港は国内随一の地位を確保し続けている。
 前述した如く、客船寄港のターゲットが奈良京都にあるという他港湾が真似のできない地理的な
優位性があることもプラスしている。
 また大阪港の別の特殊性として、海外で知名度を誇っているのものに帆船関係の大きなイベントの
開催がある。 昭和58年10月’83大阪世界帆船祭りが開催されたのを始め、平成9年3月
SAIL OSAKA ’97(香港/大阪国際帆船レース)が開催され、大阪港は帆船のメッカとしても
世界に名を馳せている。

大阪港改築工事が市営である所以は?

 大阪では有史以来国営とか国費とかが伝統的に馴染まない。
 現在の大阪港の原型は、前述した如く明治30年の築港事業の開始であるが
当時の第1期工事10年間の予算合計が2,249万400円であるのに対して、国庫補助は
わずかに468万円となっている。およそ5分の一であった。
 これが大阪港は市営であると語り続けて来られた所以であろう。それを可能にしたのは
天下の台所として財力をふるってきた大阪には、当時でも多くの財閥が在住していたことに
よるものと考えられる。 当時の国内他港では考えられない財力を有していたことになる。

 そのほかにも大阪には官営が馴染まないとか国庫には頼らない伝統がある。
 その一つには、大阪には古く江戸時代から水の都として橋が多いことから「浪華の八百八橋」と
云われていたが、実際には当時の大阪には200近い橋があったが、幕府が費用を負担して
工事するいわゆる「公儀橋」は、天満橋、天神橋、難波橋の三つを含めてわずかに12に過ぎない。
 そのほかの橋は「町橋」といって民間が出資して作ったものである。
 当時江戸では350程の橋があり、その半数が公儀橋であり、このことからも両都市の性格の
違いがよくわかる。

 勿論「浪華の八百八橋」は江戸の「八百八町」、京都の「八百八寺」との対語であり、数の多さを
表現したものである。 ちなみに大阪の橋の数が808になったのは、昭和58年と云われている。

 そのほか大阪が伝統的に民主民営と云われてきたものに「大阪三郷」といった組織があった。
 江戸時代、大阪の町人町は、3つの町政組織すなわち南組、北組、天満組からなり、三郷とも
呼ばれた。 三郷にはそれぞれ惣会所が置かれ、5〜10名程の惣年寄りが任命され、その合議で
町政が運営されていた。
 惣年寄りは各町の町年寄りの意見を聞き、町の行政全般を指揮したほか、株仲間を通して、
商人を統制する役割を担っていた。
 町奉行所の支配下にあったが、かなり大きな権限が与えられており、それが大阪の町人自治を
特徴づけていた。

あとがき

 前述のとおり、大阪港の早朝入港時の港内および背景の景観は他港には見られない
すばらしさがある。同じように夕方西の水平線に陽が沈む頃の本船の出港操船も映画の
ドラマの展開か?と錯覚させる感激に浸れる。

 天保山の頂上で大阪港の大関門の間に陽が沈むと同時にその太陽が明石海峡の真ん中に
沈みゆくところの光景を描いている明治の初期の錦絵を少なからず見る機会がある。
 当世の写真マニアの世界でも人気のあるスポットだ。

 現在は人々の多くが、同じ構図をサントリーミュージアムの屋上あるいはホテルシーガルの
屋上からレンズを向けている。 この光景は数百年を経ても変わらぬステキなものだ。

 大関門の取り壊しと可航幅を400mに拡幅する工事(港湾計画)が確定した平成8年から
4年後の平成12年6月のある日,ある夕刊の次の記事が目に入った。
  「風前の赤・白灯台(大阪港 見守り1世紀!)大阪港の正面玄関で,築港以来1世紀にわたって
親しまれてきた大関門の風景が変ろうとしている。」
 コンテナ船の大型化に対応して航路の幅を広げるため,来年度中にも赤白二つの灯台が
防波堤とともに姿を消す。

 長い航海から帰ってきた海の男たちを迎え,灯台の間に沈む夕日が人気のスポットともなっていた。
 築港計画を手がけたオランダ人技師デ・レーケの業績を残す近代化遺産として防波堤の保存を
求める声も上がっているが,大阪市港湾局は「港の発展には航路の確保が欠かせない」とし,
時代の波は押し戻せそうにない。

 当方が平成10年に開設したホームページ 「海と船の写真展」URL:
http://www.asahi-net.or.jp/~mm2y-inb/index.htm もご覧いただけましたら幸いです。
 「大阪の海からの情報」を盛りだくさん掲載いたしております。

 本稿執筆にあたって下記の資料を参考とさせていただきました。
また表現の一部の引用をもさせていただきました。
 それぞれの書籍の執筆者さまには心よりお礼申し上げます。 

                               
 参考文献:
   

1.千年都市大阪「まちづくり物語」 (財)都市工学情報センター
              (写真のD)平成11年12月15日発行
2.大阪人 第55巻         平成13年12月1日発行
3.大阪川口居留地の研究  堀田暁生・西口忠共編 (写真のA
               思文閣出版 平成7年2月25日発行
4.水をさぐる「琵琶湖・淀川水系」(上) 山本善稔 著
             (株)梅田出版 平成13年3月10日発行
5.枚方宿の今昔  宿場町枚方を考える会 平成10年6月1日発行
6.大阪と海 2000年の歴史(写真のC
          河内厚郎 編     1997年1月15日発行
7.なにわ大阪大発見 梅棹忠夫 監修 なにわ文化研究会 編
             (写真のE)平成10年3月31日発行
8.大阪近代史話 「大阪の歴史」研究会 編 
              東方出版(株) 1998年3月25日発行
9.大阪築港100年 上・中・下巻     大阪市港湾局発行
    (平成9年10月〜平成11年12月発行)
10.河村瑞賢   古田良一氏著 吉川弘文舘  昭和39年6月発行  
11.図説・和船史話  石井謙治氏著 至誠堂 昭和58年7月30日発行
12.日本の川を蘇らせた技師デ・レイケ 上林好之著(写真のB
              草思社 1999年12月3日発行

以上おわり。


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