(財)日本海事広報協会からのご依頼による投稿
「ラ・メール」平成15年7,8月号
特集「神戸フェスタ」
                                                      平成15年5月20日
 ―水先案内と神戸―
                                                         阪神パイロット
                                                         稲葉八洲雄
 
 先人達への畏敬 

 六甲山頂から見下ろす神戸の夜景は、一千万ドルという。
 また六甲山に背後を護られた神戸港は冬場の自然の脅威からから守られた天然の
良港であると云われている。
  れらのプラスイメージも、水先案内という業務を通じ、毎日沖合から神戸港を眺める
うちに、イメージに更なるステキな風味を付加させることになる。

 すなわち、12世紀の平家が興隆を極めた時期に清盛が築いた人工の島「経が島」
(中国は宋との貿易を盛んにならしめた兵庫津の港の基盤となった。
 現在の和田岬近辺一帯の浚渫地域をいう。)のことを知る人は多い。
 今日の神戸港の基礎となっている。
 当時の和田岬沖は海難事故が多発する船舶交通の難所中の難所であった
わけです。
 
 写真@神戸港の全景(神戸港振興協会提供)
 
  
 写真Aビーナスブリッジからの神戸の夜景(神戸港振興協会提供)

 平家物語といえば、室町初期の京都に数百人いた琵琶法師の語り伝えを、
何時の時代にまとめられたものか、作者不明も含め、謎が多い。
 しかしながら港町神戸在住者にとっての平家物語は、特別身近な存在に
なっていると云っても過言ではない。
 「兵庫運河」は「新川運河」築造の立役者神田兵右衛門の後を継ぎ、明治32年
兵庫の魚問屋八尾善四郎により、財政的な試練を乗り越えて完成させた
人工の運河である。
 兵庫運河の西の出口にある高松橋には、同氏の銅像が、兵庫の海を
見つめるように建てられている。
 和田沖を廻らずに兵庫津に船を入れる路「兵庫運河」は、明治時代の兵庫津の
繁栄に大きな役割を演じた。

 この運河の中心となる場所には、大輪田橋(清盛橋ともいう。)があり、その北側
にある兵庫住吉神社には清盛の墓と信じられてきた十三重塔、すなわち清盛塚がある。
 1286年(弘安9年)の銘のある石像である。
 また同じ場所には昭和47年5月土地住民の宿願であった兵庫の大恩人としての
清盛公の銅像が建てられている。

 このように海側から見た神戸港は、単に天然の両港であるにとどまらず、清盛により
築造された「経が島」、 さらには明治9年、同様に海難から船舶を守るため、船舶の
安全な泊地として造られた「新川運河」、 上記の「兵庫運河」など、多くの先人達が
苦難を乗り越えて船舶の安全、港の興隆を図るために造られた、すなわち人工的に
築かれたものであるとも言えよう。

     
写真B)大輪田橋の側にある兵庫住吉神社にある「清盛塚」と「清盛の銅像」

 

 「水先案内人」といえば、江戸時代お江戸の人口が急増した1657年の明暦の大火
(江戸の大火)以降に、わが国で始めて公のライセンス持ちの職業として誕生させたと
されている。
すなわち西回りの運航において早鞆の瀬戸を無事に渡りきるには土地の自然状況、
気象・海象に詳しい者を雇い入れさせ、船の安全運航に貢献させた。
 わが国初の「公の操船アドバイザー」の誕生である。

 余談ではあるが、当時、より早く、より安全に、全国の物産を天下のお江戸に搬入
する必要から、近世海運の立案者と言われている河村瑞賢の発案で政府御用船として、
東北日本海側・北陸の物産をより安全なルートである西回りで関門海峡経由で大阪に
搬入されるルートが開発された。

 当時も関門海峡といえば疾風怒濤の流れ、現在でも流速9〜10ノットが計測される
航海の難所であり、江戸時代の菱垣廻船の運航性能では困難を極めた。
 遭難や物資の海損を最小限度にくい止めるため考案された安全対策の一つが
土地勘のある水先案内人 の活用であった。

 平家物語の時代すなわち清盛全盛の12世紀後半、多くの流布本を含めて平家物語等
「琵琶法師」の語りの中に、和田沖の船の遭難の凄さが表現されている。
 清盛が「経が島」すなわち兵庫津を築造する過程で、海の神様のお怒りを鎮めるために
築造場所に、人柱すなわち人身御供を行ったこと。
 さらには人柱となる一般の人々の命を救うため、松王丸という人物が自ら人柱に
志願したこと、一方「経が島」の名の「経」は、当時人身御供になった人々の鎮魂の為に、
たくさんの「お経」を人々が海に投げ入れたことなどがその由来であるとされている。

 清盛時代も含めて、近世の兵庫津の築造までの間、和田沖における海難防止に
関門海峡同様「操船アドバイザーのような職業」が公私を含めて活躍していたこと多くの
古文書が示している。

港こうべを海側から見る景観

 上記神戸の歴史を念頭に感じながらの神戸の海での船操り業。
 とくに早朝の海から見る神戸の景観には特筆すべきものがある。
 写真は、神戸の沖合から見た本船の入出港風景であり、あるいは又神戸港に
入出港するフェリーボートからのものであり、さらには又仕事が休みの時に釣り船
(渡船)に乗って神戸沖の防波堤に出かけて港内に入港する本船の操船状況写真です。
 六甲山の山並みがくっきりとカメラのファインダーに入るときのゾクゾクするほどの
緊張感は、まさに快感である。

 
 写真C神戸港の表玄関口中央航路を連なって入港するコンテナ船

 
 写真Dマースクラインの巨大なS型第1船Sovereign Maersk 91,560GTの初入港時。

  
 写真E六甲アイランドRC-2に着桟直前のKラインBay Bridge 34,467GT。

 また神戸港第4突堤に着桟する客船の場合は、対面のポートアイランド側より本船の
着離桟を撮る時の背景には、必ず神戸の市章山にある市章およびその隣の山「錨山」に
形刻された「錨」のマークを入れる。

 
 
  
 写真FMOLの客船ふじ丸の停泊夜景(神戸港振興協会提供)

    
 写真GNYKの客船飛鳥の出港

 上記2枚の写真は、共に背景の山肌に市章山の市章マーク、および錨山の錨のマーク
 が入っている。

 それぞれのマークは、その時代のそれぞれのイベントを記念して形刻されたものであり、
「神戸港の写真であること」が誇らしげに写ること請け合いだ。
 神戸市民の皆様を含めて、多くの皆様が、山の上から見る神戸1千万ドルの夜景
のみならず、今後は海側からの見た神戸のすばらしさを満喫して頂けたらと願って
神戸散策の海側からの手段を、下記お知らせ致します。

◎防波堤から六甲山を背景にした神戸を撮る方法 
加島渡船 078-221-5653  神戸港第4、5、6、6南、7各防波堤に行く。
 森下渡船 078-671-4655  神戸港第1または第1南防波堤に行く。
 利用料金は、いずれも往復大人一人¥1,500円)
◎客船の入出港風景を六甲山を背景に撮る方法
ポートライナー「中公園駅」下車北へ3分のところにあるタグボート待機場所付近(PI−A桟橋)より撮影。
◎フェリーボート、遊覧船より六甲山を背景に神戸港の景観を撮影する方法
 関西汽船「さんふらわあ」利用 (春、夏休み、年末年始等、約50便/年運航:要確認)
  下り=大阪南港フェリーターミナル発0800 神戸中突堤着0915
  上り=神戸中突堤発1815大阪南港フェリーターミナル着1930 の利用等があります。
 詳しくは、「神戸港フェリーターミナル」のホームページをご参照下さい。
 http://www.kobe-ferry.com/guidemap.html
遊覧船関係では「神戸港めぐり」「みなと物語」「ルミナス神戸2」「パルデメール」「コンチェルト」
「ポートオブコウベ」などの他、中突堤ポートタワー西「かもめりあ」から、3社が運航
10時から17時まで15分おきに出港、約45分間の運航で¥900 
詳しくは「ハローステーション神戸」電話 078-322-0220


  
  
  写真Hは、「新さくら丸」で大阪から神戸まで乗って、当時の第二航路白灯台に貼り
   付けられている港名入りの灯台を撮ったもの。
    神戸港第2航路白灯台即ち、第1防波堤東灯台には「神戸港」の銅製文字板が
   取付けられている。 昭和39年、40年と2年続けて神戸港が台風による水害を受け
   たとき、安全祈願のため、神戸市在住の女流書道家である長浜 洸(あきら)さん
   が自費製作し神戸市に寄贈、取り付けられたもの。
    一文字の大きさは一辺が2メートルの正方形の巨大な銅板である。
    夜間はライトアップされ神戸市街の夜景と共に際立って見える。わが国では港名
   入りの灯台はこれだけであるとのこと。

  神戸港発展の概要

  昭和32年神戸港は、大きな変革の時期であった。
 戦後の動乱から完全に国内経済が復興し、外国との貨物輸送の急増から新たな
港湾の拡張が急務となった。それまでの神戸港は、港内数十の係留ブイは常に満席で
沖合には多くの沖待ち船が投錨している状況であった。

 昭和42年念願のバース摩耶埠頭が供用開始された。
 また早くから貨物輸送のコンテナ化の時代の到来を予測していた神戸は、
昭和42年9月17日わが国初の米国マトソン社のフルコンテナ船「ハワイアンプランター」
14,019DWT、460TEU積載を新たに供用開始された摩耶埠頭第3突堤に受け入れた。
 その後のポートアイランドの完成、さらには六甲アイランドの完成、取り扱いコンテナ数の
上昇にあわせてコンテナ岸壁は拡充された。
 以来平成7年の阪神淡路大震災、および同時期に完成した東南アジア諸港の
コンテナバースの供用開始までの間の約30年間、横浜港と並んで世界でも有数の
国際コンテナ港として活躍した。
 大震災後一時は入港船舶数の激減に悩まされた時期もあったが、最近では、
もとの活気を取り戻しつつある。

 神戸港、大阪港を守備範囲とする阪神水先人会。現在の所属パイロット総数38名。
 神戸港の東西7マイル(13キロ)と、その東側に隣接する大阪港から堺泉北港までの
沿岸距離10マイル(19キロ)の合計17マイルの距離を4隻の高速艇パイロットボートが
毎日走り回っている。
 おそらくハーバーを管轄する水先区としては沿岸距離の長さ、さらにはパイロットボート
1隻あたりの一日航走時間、航走距離等は全国一では ないだろうか。

 六甲山に囲まれた天然の良港、先人達が残した優れた遺跡の中での日常業務から、
若さ維持の為の良薬を吸収し続けているようなステキな気分になるのは私だけではない。

 
  
 写真Iコンテナ船の入港業務のため、高速パイロットボート「ありま」で本船に乗船
   するパイロット(神戸港振興協会提供)

  
 写真J阪神水先人会神戸本部事務所

おわりに

 私の中学時代、昭和27年中学2年の社会科教科書「一般社会」には、必ず神戸港
または横浜港の雑貨岸壁での本船の荷役風景の写真が掲載されており、説明文では、
「海運立国」「海洋国家」 「資源のない国での外国貿易の大切さ」などがあった。
 ところが昭和40年代の高度成長期の始まりとともに、中学社会科の教科書から上記の
写真と共に「海運の重要性」に関する記述は、すべて姿を消した。

 現在の中学生を含めて大人の世界においても、船、港といえば、連想されるのは必ず
客船、帆船、フェリーなど華麗、憧れ、ノスタルジアのようなものになる。
 我々の年代にとっての海、港、船は「国民経済を支えるもの」あるいは
「生きるための大切な手段」であり、夢や憧れどころではない真剣勝負そのものの
イメージであろう。
 私にとっての船は、今でも「冷徹、試練、堅さ」である。

 神戸港の戦中・戦後の話を伺いに、時々神戸港はメリケン波止場の根っ子にある
売店のオッチャンこと上間徹さん(78歳程度か?)をお訪ねする。
 メリケン波止場の生き字引。復員後「メリケン通船」の二代目社長を務めた。
 その後港湾の拡充発展とは裏腹に日本人船員の激減、通船需要の激減が続き
昭和55年廃業。 ここで売店を営んでいる。

 港が栄えた昭和40年代には、通船業者の数も多く、隻数は合計60隻を超えた。
 当時活気のあった頃のメリケン波止場、乗船勤務の為本船へ向かう夫を見送りに
幼子の手をひく妻。
 気丈を必死に演ずる母とむずかる子をなぐさめ、勇気づけてきたオッチャン社長の
ことを今でも覚えている元船乗りは少なくない。

 時代の変化とともに価値観も変わった。しかし海運が必要であることは今も同じ。
 何とか次代を担う子供達に伝える手段はないものかと考えあぐねて、平10年10月に
「海と船の写真展」 と題したホームページを開設した。
 お時間がありましたら是非覗いてやって下さいませ。

 ホームページ「海と船の写真展」のURLは、
 http://inaba228.sakura.ne.jp/
また下記にご意見お寄せ下さいませ。
 E-mail:mm2y-inb@asahi-net.or.jp

                                                  以上


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