(財)日本水路協会機関誌(季刊)「水路」
平成13年10月号No.119に掲載。
5 アマゾンの奥地まで大型船が上る
南米航路の貨物船に乗っていた昭和51年の春の事。
本船は,総トン数6,756t船の長さ150mの貨物船。
ある日の航海中,会社から次の電報を受信した。
「次航はアマゾン河の奥まで入る。」との。
南米大陸を横断するように流れるアマゾン河の長さは延べ全長6,770kmといわれている,
まさに世界一の長大な河である。
マナウス(Manaus)という港,アマゾンの河口から上流へ約700M(1,300
km)の所
にある赤道直下の港。
アマゾン川概要図
マナウスといえば,一大繁栄を遂げたのは19世紀末のゴムブーム。
アマゾン上流で天然ゴムが発見され,一攫千金を夢見た人々がヨーロッパから
大挙して押し寄せて来た場所である。20世紀に入りゴムの主生産地が東南アジアに
取って代られ急激に寂れたが,いまだに人口100万を超える大都市であり,
栄華を極めた当時の建造物もあちこちに残されている。
アマゾンの河口から,ここまで本船で二昼夜とチョットの航程。
地図上で見るアマゾンの雄大さ。マナウスから更に上流1,000M(1,900km)の所には
イキートス(Iquitoso)という港がある。
ここまでは総トン数3,000t程度までの船ならたどり着けるという。
イキートスは広大なブラジルを横断し,ペルー側に入り,更に300M(約540km)も入った所。
南米大陸の西岸を南北に縦断しているアンデス山脈の東側のふもとといえば分かりやすい。
私の船の目的とする港マナウスはアマゾンの河口から700M(1,300km)上流にあるが,
それでもアマゾン川の長さからいえば,半分以下の所にある。
まさにアマゾンは世界一大きな,雄大な川であるといえよう。
この辺りの海図といえば,アマゾン川の全長を記載したものが,たったの1枚あるだけである。
アマゾン河は,通常北方の入口から入る。
その場合はサンタナ(Santana)という所で水先人を乗せる。
これこそまさに水先案内人である。
よれよれの半ズボンによれよれの麦わら帽子をかぶり,スリッパ履きといういでたちで
に乗りこんできた。
このパイロットは本船が保有していたたった1枚の海図などには目もくれなかった。
パイロットいわく。アマゾン川は日に日に流れを変える。まともな海図など作れない,
作っても意味がない。
翌日には役に立たなくなる。
アマゾンは年間を通じ雨量が多く常に豊かな水量があり,流れは湿地帯,熱帯雨林の
姿をしばしば変える。
我々は何十年もここに住んでいる。
従って季節の変化に応じて流れがどの様に変るか?
大型船が通れる水深の深い場所はどうして分かるか?
すべてが身体全体で感じ取ること,すなわち経験ですとの答え。
写真4 アマゾン川熱帯原生林の中を走る商船三井Sunshine Amazon号
18,936GT,LOA174m(商船三井?提供)
2名のパイロットが交代で2日半の水先案内をする。
海図に頼るのではなく,川の流れを見るプロとしての自分の目を頼りにする。
夜間の航行も月明かりの中で水面の動きを観察,時にはレーダーに写る何かを嗅ぎ分ける。
我々が持ち込んだ海図はほとんど役に立たない様相を呈していた。
ある時,上流から流れてきた畳100畳ほどもある島みたいな物に牛が1頭乗っていたのには驚いた。
また河を上っているときに,流れの速さが変らないのに次第にスピードが落ちてくる時がある。
このような時は船首のバルバスバウを覗きに行く。
大抵の場合はバウに両手一抱えほどの長い樹木や蔦が引っ掛っている。
増水期にはしばしば起こる現象だ。
それほど雄大な,あるいは通常の航海では見られない珍しい光景に出くわす。
これもまさしく「水の路」。
海図なき水の路には,計り知れない多くの不安と止め様もない好奇心をそそる魔力がある。
私の船に与えられた使命には,水の路アマゾン川航行の安全性の調査とともに
コンテナ貨物(空バンを含め)の安全性と効率的な回転の確認とがあった。
前者すなわち,アマゾン河河川航行の調査では,この次の2航海目では,
パイロットの勧めもあり,アマゾン河の南の入口から上る計画を決行した。
南の入口,すなわちこの辺りでは大きな港であるベレン(Belem)港から入って行く水の路。
北の入口経由の場合はサンタレムという所でパイロットをピックアップしたのに対し,
南の入口経由の場合はベレン港でパイロットを乗せる。
南入口は,北入口より約160Mほど南東に位置する。
マナウスまでの距離はヨーロッパ経由で入って来た場合,南経由の方が距離はかなり
短縮されるが,途中で夜間航行が危険であるために錨泊して夜明けを待たねばならない場所がある。
どちらにメリットがあるかを調査する目的で2航海目は南経由としたが,
河幅が場所によっては非常に狭くなる所があり,また急角度変針を余儀なくされる所も多く,
舵効に不安を感じたので,結論としては「推奨できない」とした。
なお,ベレン(Belem)港は,昔から大型船が寄港するこの辺りで唯一の大港湾であり,
タグボートも何隻か常駐している。
この巨大な河川航行中に座礁その他の事故を起こしたとき,タグの助けを求めた場合には,
ここベレン港からタグボートが出る。
事故現場まで到着するには,4,5日は掛かることを覚悟せねばならない。
ある時マナウスへの途中で10,000t程度の貨物船が浅瀬に座礁していた。
その船の喫水は,ほぼ満載近く,時期は河川の増水期を過ぎた時期であり,
水面の上昇が期待できる状態ではなかった。貨物の瀬取りが必要とされた。
バージの到着を待って,すでに1週間が経過していた。
またある時はマナウス到着寸前で30,000t程度のタンカーが火災を起こして炎上中であった。
重油,ナフサ,ガソリンを混載しているとか。
ガソリンを積載したタンクやナフサを積載しているタンクに燃え移ったら爆発は間違いなし
ということで,2日前の火災発生後直ちに乗り組み員は全員退船しているとのこと。
消火手段がなく,近日中にフランスから飛行機が来て,粉末消火弾を投下する方法が
とられるとのことであった。
このような場所では何かの事故が起こると処置が思うようにならない。
何しろ絶海の孤島といった感じで,すべてが浮世離れを実感するアマゾン河だ。
余談ですが。。。。先程のベレン港。
現在ブラジルに在住する日系人の人口は約130万人といわれ,ブラジルの人口の約1%とのこと。
そのほとんどがサンパウロ州とその隣のパラナ州が有名であるが,バラー州の首都ベレンも
日系人との縁が深いところでもある。
胡椒の栽培で発展したベレン近郊のトメアスー移住地をはじめ,各地で多くの日系人が
たくましく活躍している。
1908年(明治41年)日本人移民第1号は,わずかに791名から始まったといわれている。
その後の約70年の間に合計100万人を超えたといわれている移民の中には,
当地ベレン港で上陸して開拓地に向った人々も多い。
その辺りの歴史を示す記念物も多く残されている。
アマゾン河の南方からの入口にあるベレンの港。
ここも日本人の生きた証としての水の路であり,日本との繋がりの深さに思いを馳せる
仕事船の旅は,また格別の意味合いがあった。
6 100年の輝きに幕を下ろす大関門
今から約100年前の1900年(明治33年)当時,船の長さが将来300mになるであろうと
予想できたかどうかは知る由もないが,オランダから招聘されて河川の改修や各地の
港湾設計に携わったデ・レーケの作品で今日まで残されていた大阪港大関門が消え去ろうとしている。
可航幅300mを有する大阪港大関門。 年齢は100歳。1905年(明治38年)大関門を構成している
南北両防波堤及びそれぞれの先端に取り付けられた白・赤の灯台(大阪港関門灯台)が完成した。
近代港湾としての大阪港の発展を考えるとき,オランダ人技師デ・レーケ抜きには語れない。
日本政府に招かれて日本の近代化に貢献したお雇い外国人の一人であったが,彼だけは
特別長期(1873年から1903年までの30年間)にわたり日本に滞在して,大阪港築港計画はじめ
淀川の改修,木曽川下流の改修等による洪水防止で果たした功績は極めて有名である。
その他,東京港,横浜港,千葉港,利根川運河,宇品港,現広島港,現博多港,長崎港の
建設現場において果たした役割も高く評価されている。
デ・レーケ。
オランダでは全くの下級技師であった。
日本の近代化への貢献度の高さ,あるいは「大阪港近代築港の生みの親」とも評価されながら,
明治30年10月(1897年)の大阪港起工式や木曾川3川分流一次竣工式には,在日中でありながら
招待されなかった事実を無念に思うこと。後世の港湾関係者が一様に彼の偉大な功績を
たたえるとともに,語り継いでいることではある。
昨年(2000年)の4月,日蘭交流400周年記念事業として,地元大阪では
「デ・レーケ記念シンポジウム」が国土交通省近畿地方建設局,同じく国土交通省第三港湾建設局,
大阪府,大阪市,(社)土木学会関西支部,オランダ大使館,オランダ総領事館等の共催で盛大に
執り行われた。
オランダからはデ・レーケのお孫さん他多くの関係者が招待された。
遅まきながら,デ・レーケの輝かしい業績が100年後の今日,オランダ及び日本の両国で,
公に評価され,安堵感が会場を埋め尽くした多くの港湾関係者の胸中に浸透したことと思われた。
デ・レーケの功績評価は,今から40年前の1961年頃,当時建設省近畿地方建設局に
勤務していた上林好之(かみばやしよしゆき)氏(現東京大学生産技術研究所顧問研究員)による
40年間にわたるデ・レーケ研究の成果によるところが大きいこと特筆致したい。
デ・レーケと大阪港,そして大関門。
切っても切れない関係にあったが,時代の変化は大関門100年の輝かしい歴史に幕を下ろすことを
余儀なくさせている。
大型船を操船し,ここ大阪港大関門を行来するパイロット業が今年で8年目となった筆者にとって,
大関門は,まさに手足同然の無くてはならない存在であった。
大阪港は,古代「難波津」と呼ばれ,古くから市民の台所,天下の台所を支えてきた。
また,昔の航路標識でもあった「澪(みおつくし)」が市章でもあるように,市民が港を支え,
港が市民の台所を支えてきたという相互助け合いの歴史には特筆すべきものが多い。
港に出入りする船舶の安全を支えてきた大関門の発展的取り壊しが決定した数年前より
輝かしい大関門の100年の歴史を回想しつつ,筆者は日々の操船業務に専念している。
早朝,日の出とともに大阪港内港航路に船を進め,大関門を通過して港内に入る。
右前方の港大橋の背後に日が昇り始める頃,黄金色に輝く水面を滑るように,港内から
次々と多種多様な船が出港してくる。
他の港湾では見られない”船の歴史の縮図”を見る思いがする。
安土桃山から江戸時代にかけて,天下の台所として栄えた大阪港であるが,今日の近代港湾を
完成させた歴史は,”低地・大阪”のハンディキャップを克服する戦いであり,途絶えることのない
苦難の歴史であった。
写真5 日の出直後の日差しを背後に受けて出港するコンテナ船「さざんくろす丸」
35,234GT,及びまぶしく輝く前方の海面に目を据えて入港する自船「JIN AN」
8,628GT(ズーム約120mm)
築港100周年。戦災では,軍事戦略基地でもあった大阪港は,他の国内主要港湾とは
比較にならない大きな損害を被ったこと。さらには1934年の室戸台風,1950年の
ジェーン台風を筆頭に度重なる台風高潮に莫大な浸水被害を被り続けてきた。
戦後50年かけて延べ約60kmに及ぶ背の高い防潮堤を築造,更に374か所に防潮扉を設置し
防潮対策を完成させた。
これら苦難に果敢に立ち向かい,今日までにこぎつけた不屈のエネルギーの源は,
起工以来100年“商都大阪は港から”とする不変の志,更には官民協力のもと,一貫して
市営港としての市主体の伝統を貫いてきたことにあろう。
北の中島川,南の大和川に挟まれたかつての河川内港・大阪港。
港内には正蓮寺川,安治川,尻無川,木津川の4本の川が流れ込み,
常時港内には土砂が運ばれてくる。
水深維持のための浚渫に要する莫大な出費は将来にわたり逃れることができない
宿命となっている。
昇る朝日を背に受けて内港航路を出港し,或はまた,大関門に沈みゆく夕日に向かって
出港して行く船の操船者は市民に支えられた大阪港の不屈のエネルギーを信じている。
写真6 大阪港朝のラッシュアワーの様子
日の出とともに右前方の港大橋が明るく浮かび上がり,入港船が
港外から大関門に向け,怒濤のごとく押し寄せる朝の様子を撮影したもの。
大関門にさしかかっているのがコンテナ船「EVER GENERAL」46,410GT,
その後から入港する多目的船「SEA CRYSTAL」16,775GTなど。
大阪港の一日の始まりである。(ズーム約90mm)
写真7 大関門通航中のコンテナ船Hanjin Paris号 65,643GT。
両防波堤および先端の赤・白灯台の取り壊し撤去が決定している。
大関門の取り壊しと可航幅を400mに拡幅する工事(港湾計画)が確定した平成8年から
4年後の平成12年6月のある日,ある夕刊の次の記事が目に入った。
「風前の赤・白灯台(大阪港 見守り1世紀!)大阪港の正面玄関で,
築港以来1世紀にわたって親しまれてきた大関門の風景が変ろうとしている。」
コンテナ船の大型化に対応して航路の幅を広げるため,来年度中にも赤白二つの灯台が
防波堤とともに姿を消す。
長い航海から帰ってきた海の男たちを迎え,灯台の間に沈む夕日が人気のスポットともなっていた。
築港計画を手がけたオランダ人技師デ・レーケの業績を残す近代化遺産として防波堤の保存を
求める声も上がっているが,大阪市港湾局は「港の発展には航路の確保が欠かせない」とし,
時代の波は押し戻せそうにない。