水の路(みち)(3)

 (財)日本水路協会機関誌(季刊)「水路」
 平成14年1月号No.120号に掲載。
 

7 視界ゼロでも大型船が通航する

 エジプトのナイル川,トルコ,シリアからイラクを通ってペルシャ湾に
流れ入るチグリス・ユーフラテス川,それに中国の黄河。
 文明発祥には水利は欠かせなかったと同様に,現代社会においても物流の
要路として水の路の利便は重要であることいずこも同じ。

 1960年代の西ドイツ。文明の発祥ならずとも西の沿岸には,第二次世界大戦後
の経済復興の原点となったNorth Seaに流れ出ている3本の大河River Elbe, River Weser,
それにRiver Rhine がある。更に加えて物流の極めて重要な要路としては,
Kiel運河がある。

 ここは北方のユトランド半島デンマークと西ドイツが接する北部シュレッシュウィッヒ
ホルシュタイン州内を東西に通っている。運河の北東の入口にあるKiel軍港は,
世界大戦時に大きな役割を演じたことは有名である。

 この運河は,最初の完成は1895年であるが,国策として1907年より1914年までの間に,
より大きなサイズの船舶の航行を可能ならしめるために大型化された。
 第一次大戦の勃発の時期である。ドイツは,北方はBaltic Seaに,西はNorth Seaに
面しており,以前は船舶の東西交通は,デンマークの北方を迂回する425Mの行程を
余儀なくされていた。

 運河の大型化により短縮航行が可能となり,東西の行程は,わずかに61Mに短縮された。
 通航の最大船型は,軍用が主目的であったため,パナマ運河より幾分大きなサイズまでが
航行可能であり,最大喫水も37ftと深く,船幅はパナマックスすなわち32.5m,最大船長
235mとなっている。

 この運河が戦後の経済復興に果たした役割は,前述の3本の川に十分に匹敵する程の
ものであったという。
 これらの物流の要路をソフト面で支えてきたのが,1960年代にすでに構築されたRadar Control
を基盤としたshore based pilotによるVTS (Vessels Traffic System)であろう。

 北ヨーロッパの海では,年間の半分以上が深い霧に閉ざされるという。
 航海者にとっては何者にも勝る難敵であろう。
 1987年,私の船はNorth Seaに面する西ドイツ沿岸でヨーロッパの春を迎えた。
 毎日が視界不良の連続で目隠し同然の手探り航海に慣れない我々日本人Navigator
にとっては神経の休まる日はなかった。


     図1 西ヨーロッパ概要図

 German Bight?屈曲の激しいドイツの海岸のこと?
 西ドイツ沿岸を走り,Hamburgへの水の路Elbe川入口に到着した本船は
River Pilotの乗船を待つ。
 世界でも珍しい画期的な航行システムであるRadar ControlによるVTSによる
航行が始まってすでに20年が経っていた。

 敗戦後の西ドイツ経済を驚異的なスピードで建て直した基盤にもなった。
バルト海方面からはKiel運河を通し,内陸Hamburg, Bremenからは,それぞれ
Elbe River,Weser Riverを通して物資輸送が安定的に行われた。

 これら安定輸送を支えたのがRadar Control by Shore Based Pilotによる
「目隠しでも安全な航行」である。
 視界不良の目隠し航行でも安全な航行ができるということが安定的な
経済運営にとっては不可欠であった。

 西ドイツ国内の水の要路German Bightを苦も無く操るVTS。
 視界不良。
 Elbe River PilotをRiver入口でピックアップ。
 それから約3時間約40Mでパイロット交代地点のBrunsbuttelに到着。
 ここはKiel運河への西側の入口になっている。
 入口左岸を横目で見ながら,さらに内陸へと進む。

 海域全面は最初からDense Fog状態。本船の船首もぼんやりと霞むほど。
 パイロットのトランシーバーからは,ひっきりなしにControl Stationから
各種の情報が入ってくる。

 再度パイロットが交代して約3時間約38M。
バース直前でDockingパイロットと交代して無事に着桟完了。

 Hamburg到着,暇を見つけて上陸,目指すはRadar Control Station。
 突然現れた日本人見学者を温かく迎えてくれたControl Stationの面々。
 Government Operatorの他にElbe Riverパイロット4?5名が,およそ6台の
Radarのブラウン管を見ながら,厳しい状況の中で,静かな声でElbe Riverを
上り下りする本船船長,あるいは本船のパイロットに必要なアドバイスを行なう。

 コース,速力の指示,船舶の航行情報,障害物に対する警報,気象海象情報の伝達,
到着予定時刻の調整指示等を行なっっていた。
 視界の程度は,数M置きに設置されたビーコン上のセンサーが捉えて
センターに自動的に伝達している。
 各パイロットはブラウン管を見ながら1名につき数隻の本船を担当。

  写真8 エルベ川をHamburgに向け航行中の
          PCC「まあきゅりーえーす」44,979G/T
         川崎芳宏氏 提供
 

 本船の安全運航に必要な情報・指示を送り続け,本船からの問いかけに即座に応答する。
  本船及びセンター間の信頼関係のすばらしさが,こちらの身体にも伝わってきた。
  これこそ本物のSafe TrafficControlだ。

 ブラウン管内では,互いに見えない本船同士がまるで互いに視認し合っているが如き
淡々とした普段通りの航行を続けていた。
 日本の春先に度々見かけるDense Fog状況下での「恐る恐る航行」とは様子を
異にしていた。
 新たな発見をした思いと好奇心。
 羨ましくもあり妬ましくもあった。
 西ドイツの運輸行政の一貫として,パイロットはRiver Pilot,Docking Pilotそれに
Radar Control Stationに勤務するShore Based Pilotが数週間おきに順繰りに3箇所の
業務を交代して行くシステムであった。

 船をハード,ソフトの両面をよく知っているパイロット自身が陸上からRadar映像を
見ながら本船に操船上の指示を出すという合理的なシステムを見てビックリしたものだ。

 当時は視界不良時にのみパイロットが常駐するという状況であったが,現在は
航行船舶の大型化,あるいは通航船の輻輳度アップもあり,視界の善し悪しにかかわらず,
パイロットが常駐し,安全確保に努めているという。
 またShore Based Pilotの役割が増し,将来は,従来強制であった本船のOn boardPilotを
一部削減するという画期的な試行を行なう段階に来ているとの話題もある。
 

8 ナイアガラの滝を大型船が昇る

 水の路。
 特に川を船が上るには,あるいはパナマ運河,スエズ運河のように船を大陸横断
させるには運河を堀り,Lockを造る。
 内陸に船を入れる場合も,この方法しかない。
 世界各地の川には,そのような通航路が無数にある。
 前々回の「水の路(1)」(本誌118号平成13年7月発行)では,セントローレンス川に
面したモントリオールまでの路の話をさせて頂きました。

 今回はその先の川の奥の奥,五大湖の最奥までの航行のお話です。
 五大湖。アメリカとカナダの国境線はアメリカ国内に位置するミシガン湖を除く
4個の湖の真中を通っている。
 船がモントリオールを過ぎるところからのお話です。

         図2 五大湖概要図

 セントローレンス川を大西洋側から入って,大型貨物船が行き着く最奥は
Lake Superior。
 本船「もんてびでお丸」総トン数8,995トンが五大湖最奥の港Duluthに
到着したのは,1967年10月であった。
 セントローレンス川を上ること約2,100M。

 日本を出てからすでに十数の港に寄港した後のことである。
 この港では,学童給食用のミルク(当時は脱脂粉乳と呼ばれていた。)を
積み込むためであった。
 ここSuperior湖の湖面の高さは,大西洋の海面より何と183mも高い位置にある。

 この港に至るまでに合計18個のLockを通り抜けるわけですが,これらのLockは,
古くは1830年頃から蒸気船など小型船の通航を可能ならしめるために築かれていた。
 途中のOntario湖からErie湖に至る間に存在する有名なナイアガラの滝ですが,
滝に並行して大型船が通る路Welland Canalがある。

 このCanalの大型化は,1913年の着工で1932年にオープンされている。
 ナイアガラの滝の高さは100mであり,側道としての船の通り道Welland Canalも
Lock合計8個で,その前後の水面の高さの差は,滝と同じ100mとなっている。
 Lock 1ヶ所通るごとに水面は平均12mも差がある。最高の高低差はLock1段で
18mというものがここには存在する。

 下記に示すのは、大西洋から川を上り、途中のLockを越えるたびにどれくらい水面が
高くなるかを示すものです。

   Lock名        段差  大西洋海面からの高さ  大西洋からの距離
St.Lambert Locks            2          18m                     1650km
Cote.St.Catherine Locks       2          30m                     1698km
Beauhanois Locks              2          36m                     1769km
Snell and Eisenhower Lock     1           1m                     2059km
Welland Canal Locks           8          99m                     2104km
(Lake Ontario/Lake Erie)
ST.Clair Lock                 1           2m                     2496km
(Lake Erie/Lake Huron)
ST.Marys                      1           7m                     2979km
(Lake Huron/Lake Superior)
 合計の高さの差            183メートル
 

 五大湖航路に就航する本船には特徴がある。
 本船の外板のパラレルボディー部(本船の中央部2分の1程度の長さの所)に
電車の枕木のような材木が水面上の高さ5mの所に横方向に約70mも取り付け
られている。

 Lock内の外壁はコンクリートで船巾いっぱいの25m程度である。
 Lock内での注・排水で本船船体は,数十秒の間にMax 18mも上
昇降下が行なわれる。ものすごい勢いで上昇下降する。
 従ってその時に本船外板とLockの壁との間が擦られて生じる摩擦熱は非常に大きく,
夜間は本船の両舷から大きな火柱が上る。
 本船の外板を守るために取り付けられているフェンダーである。


     図3 セントローレンスシーウェイ

 ここセントローレンスシーウェイは,毎年冬場に入る前,12月に閉鎖され,翌年の
4月中旬にオープンする。
 この間当地は完全に氷に閉ざされた状態となる。氷の厚さは1.2mに達する。
 モントリオール港のすぐそばのSt.Lambert Lock門のことを,人は時に「地獄の門」
あるいは「極楽の門」と呼ぶ。

 私がここを東から入ったのは11月初旬で,中から門を出たのが12月であったが,
出るのが1ヶ月遅れれば,氷の時期が早まった場合には氷に閉ざされて1年間
越冬しなければならない。

 そのような意味で冬が接近すると人は,入る時に「地獄門」を実感し,出る時には
「極楽門」を実感する。
 昭和40年代の後半コンテナ船輸送が始まった。五大湖航路雑貨船輸送の終えんであった。
 船会社は費用をかけて,ここまで船を寄せないでもアメリカ西岸でコンテナを揚げて,
内陸部をトラック輸送する方法のメリットを選択し始めた。

 本船「もんてびでお丸」の五大湖就航の3年後には大型船の当地への就航はなくなった。
 その後の五大湖がどの様に変質したか?いつかは訪れてみたい場所である。

 湖の両岸はアメリカ,カナダの人々の夏場の避暑地として,背景の大森林の美しさが
素敵な住居のたたずまいとマッチしていたのが印象的であった。
 

おわりに。。。

 水の路。
 船乗りとして見てきた水の路,そして現在は大阪という地で,水利との闘いの輝かしい
歴史のある大阪での「水の路」を楽しんでいる。
 この度日本水路協会から貴重なチャンスを頂けましたこと,この上なき喜びと感謝
致しております。
 これまでの「水の路」とのかかわりの中で,国の発展とのかかわりの中でも,あるいは,
人間が日常生活する場としても,水の路がいかに大切かを知らされた。

 以前から,何らかのチャンスがあれば,書き残したいとの思っておりましたタイトルです。
 一方,趣味として仕事船を撮り続ける毎日。
 仕事船にこだわる理由は明白。
 何故仕事船は貴重な存在にもかかわらず,脚光を浴びることがないのか?です。

 美しき物に人は集う。
 船とて同じ。
 美しい客船や素敵な帆船には多くのアマチュアカメラマン集まる。

 船の価値は何か?を考えるとき当然頭に浮かぶのは「大きな荷物を運べる。」であろう。
 車や飛行機では運べないもの。
 それら嵩張り貨物,重量貨物を輸送できるのが貨物船であり,今後も変わらない。
  私は「船の値打ちはここにあり!」で仕事船をとり続けたい。

 高島炭坑・軍艦島。全盛期の炭坑に始まり,廃坑となって15年以上たった現在に至るまで,
海に突き出た異様な人けのない島を30年以上も撮り続けているプロのカメラマンがいる。

 このカメラマンの撮る写真。見た途端に身体全体に電気が走った感じであった。
 写真には「我々が何処かに置き忘れてきた大切なもの。」を思い出させる迫力があった。

 戦前戦後を通じて,わが国のエネルギーを支えてきた炭坑,過酷な労働を担う炭鉱夫
およびその家族の生き様を,そしてその時代背景を鮮明に語り続けていた。
 戦後の日本商船隊と日本人船員の歴史は,炭坑と炭鉱夫のそれに酷似している。

 戦後の日本経済を縁の下で支えてきたが,今や”不要”の烙印を押されたかのように
共に消え去ろうとしている。
 資源に恵まれないわが国,将来に亘り貿易立国であり続けねばならないことに変わりはない。
 他国の船隊に頼るだけでよいのか?危機管理は大丈夫なのか?十分に論議すべきテーマ
ではなかろうか?

 港から日本商船隊および日本人船員が消え去っても,港があり,そこに働く”仕事船”
があるかぎり,仕事船の軌跡を撮り残したい。

「水の路」投稿。日本水路協会のご好意に甘えて,3回にもなってしまい,紙面を
占領してしまったことお詫び申し上げます。
                                 (おわり)
 

 平成10年10月に「海と船の写真展」と題したホームページを下記のURLにて
開設致しました。
 海に関したこと,仕事船のこと,等々盛りだくさん掲載しております。
 アクセスをお待ちしております。

                       稲葉 八洲雄
                      (阪神パイロット)
 ホームページ「海と船の写真展」URL:
    http://inaba228.sakura.ne.jp/
   E-mail,   mm2y-inb@asahi-net.or.jp

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