9.「水の路(みち)」

 (財)日本水路協会機関誌「水路」(季刊)平成13年7月号に掲載。
 

1 はじめに

 大阪は古来水の都であり,難波津と呼ばれていた当時より,水利は町民にとって
極めて大切な意味を持っていた。
 近世に至り,河川港大阪が河の氾濫との闘いを重ねて400年。苦難の歴史を乗り越えて,
現在の国際港湾としての基盤を確立した意義は大きい。
 昭和37年以来,商船三井(株)外航船の乗組員として世界中の「水の路」とかかわり,
その後,当地大阪港での水先案内を始めて8年,合計40年に及ぶ水の路とのかかわりの
長さを想い,また人生最後の仕事船とかかわり続け,当地大阪で過ごしている我が身の
幸運を想う時,そこに人の世の縁を感じざるを得ない。
 ここでは,水利との深いかかわりの歴史を刻んできた水都大阪での水先案内のご紹介
とともに船長・航海士であった期間中に経験した外国での水の路航行の厳しくも楽しかった
お話を数例ご紹介させて頂きます。

2 河をバックで下がる

 北は淀川から南へ正蓮寺川,安治川,尻無川,木津川,そして大和川と合計6本の川に
囲まれた大阪港。
 昨今のハーバーパイロットが離着桟操船のために乗り込む本船の大きさは,いずこの
港でも巨大な船ばかり。
 しかるに大阪港での河川を上り下りする船には小型であってもパイロットを要請する
船があること,大阪港ならではの醍醐味か?
 正蓮寺川。明治の初期までは淀川が毛馬で大川(支流は木津川と安治川)と中津川に別れ,
その中津川が分流して伝法川と正蓮寺川に分かれていた。

 明治政府は1870年代にオランダ人デ・レーケの淀川改修計画案を取り入れて淀川の
度重なる氾濫を防ぐための大規模改修工事を開始した。
 その結果現在の新淀川が出来上がった訳であるが,この過程でそれまでの正蓮寺川の
上流が断絶され,現在の正蓮寺川は上流を持たない孤立した海水の迂回路になっている。
 この川の河口から遡ること5kmの所にある小型船用のコイル積み出し桟橋に,小型の
外国船が南米向けの電線コイルを積み取りに来た。

 河口から4km進入した所から急に川幅が狭くなり,水深6mの可航幅は約60mであった。
 バースまでの最後の600mが可航幅の狭い場所となる。
 この船をバースから出港させる仕事が私に回ってきた。

 「おいおい,そんな狭い川幅の所までよく持っていったな?誰だい?」とそれとなく,
事務所内に仕事で待機していた連中に声を掛けた。
 その船を入港で着桟させた別のパイロットから本船の性能やら,機器の信頼度を尋ね,
前進させる時の要領を引き継い。                
 さて本船を後進で引出す時はどうなることやら。

           写真1. 河をバックで下がる
                        上流を持たない正蓮寺川。
                        左に見えるのが電線コイル積み出しバース。
                         向こう側が川の出口
 

 本船は総トン数4,453t,船の長さが126m,船幅は19m,出港喫水5.60mであった。
 川幅の狭い所は後ずさりで下がって,広い場所まで出て来なければならない。
 可航幅より船の長さの方が長い船であるので途中で方向転換は出来ない。
 船は前進は得意であるが,後進には不向きにできているものだ。

 本船のエンジンを後進にかけると船の姿勢制御が不可能となり,横を向いてしまう。
 真っ直ぐに下がることは難しい。
  小型のタグを2隻,船首に1隻,船尾に1隻とり,本船エンジンは全く使用せずに
タグボートのみで広い水面までの約600mを後進行脚0.5knの超スローで引っ張り出した。

 後進行き脚が0.5knを超えると船体姿勢制御が困難になる。
 船首に取ったタグは,行き脚が0.5kn以上にならないように適宜ブレーキを掛けるのが
スムーズに後ずさりするコツだ。
 幸い日頃から気心の知れたベテランのタグボートの船長さんがタグの指揮をとってくれた。
 いつも私の意図する操船を口で言わないでも理解してくれていて,まるで私の分身の
役割を演じてくれた。
 厳しい水の路をタグの船長さんの的確な「タグ操り!」で安全に成し遂げた良い例である。
 数万トンのコンテナ船はじめ大型船ばかり手掛けている今日この頃のパイロットにとって
滅多に経験できない楽しい出来事であった。

3 こんなでかい船が通れるのか?

 アメリカとカナダの国境を東に流れるセントローレンス川に大型船が入らなくなって既に
20年余りたった昭和63年の春のことである。
 船長の私が乗っている乗用車5,000台積み(昭和63年当時の世界最大船型)の自動車専用船に
会社から「次航はモントリオールに行く。」との連絡が入った。
 モントリオールといえば,コンテナ船時代が始まった昭和40年代の中頃から全く大型船が
行かなくなったと聞いていた。

  セントローレンス川概要図
  
 コンテナ船は大型船である。
 日数かけて川幅の狭い奥地まで入って行く無駄と危険を冒す必要が無くなっていた。
 海上貨物輸送は,スピードアップが急務となった時代である。
 大方の北米向け貨物は,北米西岸で陸揚げされ,その後は貨車又はトラックで内陸に
輸送された。
 大西洋を渡った貨物も同様に東岸で陸揚げされた。
 内陸まで本船が川を上る時代は終わっていた。
 「何故この期に及んで?」といぶかしく思った。
 本船は日本の自動車会社の持船であり,この会社が本船を運航している。
 

 写真2. セントローレンス川モントリオール入港直前のNissan Laurel

 モントリオール行きの理由は,北米カナダでのシェア回復であり,自動車会社の船を
直接持ち込むという奇抜なアイデアである。
 北米経由ハリファックス,ケベック,モントリオールの3港でONBOARD SALE
(船上即売会)を各種のお祭り行事と共に行うという画期的なイベントでもあった。

 特にケベック,モントリオールには,これまで長い年月大型船の入港は無く,
市民にとって「どでかい船がやって来る!」というだけでPublic Awareness(知名度)アップと
Curiosity(好奇心)をそそることができると考えられた。
 私の知る限り,モントリオールを経由する定期航路,いわゆる五大湖航路が無くなったのは,
私の乗った貨物船(総トン数8,995t)の昭和43年(1968年)ごろであったと思う。

 当時これらの地方では,子供を中心とした多くの市民にとっては,総トン数47,561t,
乗用車5,000台積みの大きな船が入港して来るというニュースは,まさにビックリ大事件
というほどのものであったようだ。
 本船の入港1ヶ月前からカナダ国内では大掛かりな宣伝が展開されていた。
 カナダのマスコミは競って本船の取材に熱を上げた。
 マスコミはアメリカ最後の港で本船に乗り込んで航海中も取材をしたり,カナダへの
航海の途中,ヘリコプターで本船上に降りて取材をしたり大騒ぎであった。

 結局3港合計14日間の停泊中を含めて,テレビ,新聞等マスコミ取材者の訪船の数は
120名を超えたほどの過熱振りであった。
 3港停泊中に本船を訪れた市民の数は142,000名であった。
 また期間中の自動車販売台数は986台と予想を大幅に上回った。

 本船に対する取材のメインテーマは

1)本船ほどの大きさの船の喫水で水深は心配ないのか?
2)モントリオール(セントローレンス川河口から距離約700km)までの川幅
 ミニマム800ft(244m)に対して,本船の長さ190mは,横風に対して問題は無いのか?
3)本船は建造3年であり,特に珍しい船型ではなかったが,当地のマスコミの多くが
 このようなでかい船を見たことが無い人が多かったのか,「こんなにでかい船をたった
22名で動かすのか?」とか「カーデッキが13層もあるのか?」とか
「乗り組み全員日本人で動かしているのか?
Japan as No.1はYesだな!」とか。 こちらが苦笑い続出のものが多かった。

 確かに苦労も多かった。
 大型船が入らなくなって20年も経てば,岸壁がどのようになっているのか?
 港は廃墟になっているのではないのか?少なくとも桟橋は朽ち果てているであろう?
 強度は大丈夫なのか?ビットはあるのか?水深の精度はどうだろうか?
 横風強風時はどのように凌げば良いか?川の可航幅はいくらぐらい期待できるのか?
 パイロットの力量はどの程度か?自動車船等大型船操船の経験は有るのか?
 タグボートはどの程度のものが期待できるのか?等々についての港湾事情の
詳しいものが事前入手不可能であった。

 無事に14日間の行事を終え,帰国の途についたときの喜びはこの上ないものであり,
まさに船乗り冥利に尽きるといった感じであった。
水の路
 目に見えないものが多いが,幅,深さ,潮の流れ,風の強さ,屈曲度等々世界中の
水の路はいずこも同じ。
 好奇心,チャレンジ,未知への不安,怖れ,楽しさなどのすべてを兼ね備えている。

4 人知れず物流の要路は今

 水の都大阪には数え切れないほど多くの運河がある。
 運河とは?
 広辞苑によれば「水利・灌漑・排水・給水,船舶の航行などの便に供するために,
 陸地を掘り割って通じた水路」と書かれている。

 ここでは,大阪港の歴史上貴重な役割を演じた二つの運河についてご紹介したい。
 一つは,大阪府摂津市の南西端と大阪市東淀川区の北東端が接する所にある運河で
淀川と三国川(現在の神崎川)を通したもの。地図上では運河の名前は無い。
 運河の長さは3km余りで,幅は約30m。

 この運河は,西暦784年(延歴3年)桓武天皇が都を奈良の大和から京都の長岡
(京都府の向日市)に遷し,その翌年の延歴4年(西暦785年)に造られたものである。
 すなわち,当時淀川が都と海をつなぐ大動脈として重要視されるようになり,
治水工事が始まった。
 重要な役割を演ずる淀川ではあったが,度重なる淀川下流の氾濫を防ぐため, 
 或いは又、淀川河口の浅瀬の問題は船の航行にとって安全の妨げとなっていたことから,
 淀川の水を神崎川に流す運河を掘る事は極めて有効であった。
 淀川の河口より神崎川の河口の方が水深が深かったようである。

 運河造成により,都である長岡京と大阪湾の交通は大いに発展した。
 また淀川から神崎川への分岐点にある江口(現在でも江口の地名は残っている)は
行き来する船の要路として大層栄えたとの記録がある。
 現地にしばらく佇み観察すると,運河は東西にほぼ真っ直ぐに伸び,1,200年余り経った
現在に至るまで,見事なまでに当時の原型を留めていることが分かる。

 江口付近界隈を散策し,付近に住むお年寄りに運河の由来を尋ねてみたが,これが
人工的に造られた運河であることを知る人はほとんどいなかった。
 またここを訪れる観光客も皆無であり,寂しい限りであった。
 室町幕府の極めて重要な生命線であったにもかかわらず,今では完全に忘れられた
運河となってしまっている。

写真3.この運河は,西暦785年(延歴4年)桓武天皇の時代に造られたもの。
 江口橋より西方の神崎川の方向東方の出口淀川まで全長約3kmの運河。

  もう一つの運河は,現在の安治川である。長さは25km,幅はほぼ50〜60mと一定。
  現在の地名では南端の弁天埠頭から北東に伸び堂島川と土佐堀川が合流する
中之島の西端(河口町1丁目)までの間である。

 この運河は,江戸時代の初期,幕府の命を受けて畿内の治水工事に着手していた
河村瑞賢が,淀川の氾濫を防止するには川を直進させ,川の流れを速くすることが大切と判断し,
淀川を真っ直ぐに流すのを妨害している九条島を東西に真っ二つに割る形で人工的に造られたものである。 
 1684年2月11日より,わずか20日間で新運河が完成したとの記録がある。
 町民総出で工事が行われたという。

 現在の安治川大橋南詰付近(現在の波除6丁目付近)には,波除山(別名瑞賢山)という
人工の山が明治の末期までは存在していたとのこと。
 大正時代になって付近の開発により姿を消したとのこと。
 この人工の山は浚渫して出た土砂を積み上げたものであった。

 町民総出で川の浚渫に携わった姿を描いた有名な江戸時代の錦絵が現在の天保山公園に
壁画「大浚へ(おおざらえ)」として飾られている。
 この運河も,幅がほぼ一定で,少し注意して見れば人工的に造られたものであることがすぐに分かる。
 ここは現在でも小型船および舟艇の要路としても貴重な役割を演じている。
 安治川は私ども仕事船関係者にとって,最も古くから馴染みのある川である。

 大阪市海洋博物館「なにわの海の時空間」に展示されている菱垣廻船「浪華丸」。
 江戸が興隆を極めた1690年代,すべての菱垣廻船はここ安治川の河口を出発点として
江戸へ向けて船出したことは,残存する江戸時代の錦絵「菱垣廻船河口出帆之図」で有名である。
 なお、平成13年3月末に開館したUSJ(ユニバーサルスタジオジャパン)は,この川の
南西側出口の北岸に面している。

                        阪神パイロット
                         大阪支部長 稲葉八洲雄

                               (次号10月号につづく)

                次に