3.神戸港復興工事の足跡
    この項は、平成10年初頭、阪神大震災3周年にあたり
 神戸商船大学海事資料館専門員会からのご依頼にもとづき、
 海事資料館研究年報第25号(平成10年3月25日刊行)に掲載させて
 頂きましたもの、題名「神戸港における岸壁復興工事と工法」に、
 一部加筆致しましたものです。

Prologue :

             神戸港震災4周年をかえりみて
                         「メリケン波止場メモリアル」

  大震災で崩れ落ちたメリケン波止場こそ神戸港建立の礎石であろう。
その黒ずんだ石畳には神戸港開港130年の歴史のすべてが刻まれているように
見える。
  1867年(慶応3年)5月24日兵庫開港(現在の神戸港)の勅許が下り、
翌年1868年(明治元年)1月1日開港式典。 同年5月鯉川尻で神戸港初の
桟橋らしい桟橋、荷揚場としてメリケン波止場が誕生した。
  米国領事館前であったことから、当時からメリケン波止場と呼ばれ人々に
親しまれてきた。
 戦争中は多くの民間人船員が船と共に軍に徴用され、仕事船・日本商船隊は
壊滅、6万人余りの船員が再び帰らぬ人となった。 
  戦没船員の多くは、ここメリケン波止場の石畳が祖国日本の地を踏んだ
最後の場所であったに違いない。

 戦後の復興から成長期に入り、神戸港は大いに賑わう。 岸壁の数も不十分な
時期であり港内の多数の係船ブイ、さらには沖待船へとメリケン波止場から
通船が出る。
  その数最盛期には、数社合計60隻を超えた。

 メリケン波止場の生き字引、通称「売店のオッチャン」こと上間 徹さん(72才)
がいる。  復員後メリケン通船の二代目社長を務めた。その後港湾の拡充発展
とは裏腹に日本人船員の激減、通船需要の激減が続き昭和55年廃業。
ここで売店を営んでいる。
 乗船勤務の為本船へ向かう夫を見送りに幼子の手をひく妻。気丈を必死に
演ずる母とむずかる子をなぐさめ、勇気づけてきたオッチャンのことを今でも
覚えている元船乗りは少なくない。
 円高とともに日本の外航海運は国際競争力を失い、この間約8万人の
外航船員が海の職場を失った。
  残りわずか数千人が更なる減少への運命を辿りつつある。

  波止場の夕日を肩口に、戦後50余年のメリケン波止場を語り続ける
オッチャンの顔には、日本の仕事船よび日本人船員の末路を憂い、
今後とも貿易立国であり続けねばならない日本においてさえ、不可解な
時代の流れに逆らえないという現実への悲しみが溢れていた。

 写真はH9.7.15犠牲者への鎮魂と震災被害の教訓を後生に伝達することを
目的としてメリケンパーク内に造られ竣功した「神戸港震災メモリアルパーク」
の一角。
  かつてのメリケン波止場南端から60メートルの区間を壊れた護岸や
傾いた街灯などをそのままの形で保存している。その背後には神戸港の
被災状況などの震災記録がパネルやビデオなどにより解説されている。

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